『中動態の世界』

この本は、昨年出版された日本の人文書のなかで、間違いなく最も話題になった本なのだが、僕は正直、途中まではそんなに引き込まれなかった。しかし、メルヴィルの小説『ビリー・バッド』を論じた最後の章の力強さには圧倒された。


途中まで引き込まれなかった理由は、たとえばこんなことだ。
「意志と選択」と題された第5章で、著者の国分功一郎は、「非自発的同意」という概念を行為の一類型として認める必要性を述べている。つまり、同意には、積極的でなく、「なんとなく」だったり強いられたりした結果なされるものもあるということだ。
これは、著者も言っているように、ハラスメントや性暴力の問題を扱うにあたっては有効かもしれない。しかし、この章でその具体例としてあげられているのは、カツアゲされて金を差し出す行為なのだ。そうした行為まで、「同意」の範疇に含めてしまえば、日本のような社会では、何が起きるか?
「あの同意は、自発的になされたものではないから効力をもたない」という、真っ当かつリベラル(?)な意見が広く通用するということはないであろう。逆に、「自発的だろうが非自発的だろうが、同意には違いないではないか」という、権力者や加害者にとって有利な見解が支配的になると思われる。
だから、日本のような抑圧的な社会では、「非自発的」になされたものは「同意」に含めるべきではない。それは、強制や誘導の結果であるということを強調するべきなのだ(そう思うのは、僕がカツアゲにあいやすい人間だからという理由だけではないであろう。)。
著者は、こうした日本社会の状況という、いわば政治的な現実性を見落としているか、もしくはあえて捨象して論を進めているのであろう。それは、抽象的な議論としては価値をもっても、現実に生きていく上では、むしろ弊害が大きいものだと思う。
こうした不満があって、僕はこの本の内容に、心底からは「のれなかった」のである。


ところが、先に書いたように、最後の章には大いに引きつけられた。
上に述べたような、政治的現実の捨象の疑いについても、著者自身が、政治的・歴史的強制力を無視して「選択の自由」を信仰するリベラル派・脱構築派への批判を明確に述べている箇所がある。正直、「ちゃんと分かっているんだ」と思った。
しかも、第5章の「非自発的同意」の議論は、マルクスの暴力・権力観を否定したフーコーの権力論を援用しながら(これ自体は、明解な説明だ)書かれていたのだが、こちらでは、他ならぬマルクスの言葉『人間は自分自身の歴史を思うが儘につくっているわけではない』が引用されているのだ。
また、この章では、ハンナ・アレントがその『革命について』のなかで、『ビリー・バッド』に関して書いた文章も紹介されているが、「暴力的な善」(絶対的善の暴力性)とそれを抑制する「徳」(法制度)の必要性を述べているというその議論は、ドストエフスキーの「大審問官」をほうふつさせるものだが、こちらも非常に印象深かった。
 そして何より、主人公のビリーに対峙する登場人物クラッガードの「ねたみ」の感情を分析している部分は、太宰治の「駈込み訴え」を思い出させるものだが、文章にぐいぐい引き込まれた(「駈込み訴え」も「大審問官」もイエスに関わる話だが、ビリーもやはり作中でイエスになぞらえられているという。もちろん、偶然ではないだろう。)。


 「ねたみ」については、著者の国分は、それは嫉妬とは違って、自分自身にかかわるものであり、その意味でより根源的な感情であると言う。クラッガードは、光り輝くような「善」の体現者に見えるビリーの存在に強く惹かれながら(愛情まで抱きながら)、その惹きつけられている自分を受け入れることが出来なかったために、それを心のなかで「ねたみ」へと変換してしまい、苦悩しながらビリーを憎悪し、陥れる結果に至ったというのである。

 何らかのきっかけでクラッガードが己の抱いた愛を素直に受け入れることができたならば、彼はこのようにして死ぬことはなかっただろう。しかし、彼の心が、彼の心のなかの何かが、それを許さない。(p277)

 このクラッガードの苦悩に、国分が、中動態に対する抑圧がますます強まっている現代の社会の人々の感情を重ねていることは、第7章で、「意志」を批判する後期ハイデッガーの思想を論じた次のような一節と重ねると、よく分かる。

一言で言えば、意志は過ぎ去ったこと、あるいは歴史に対して「敵意」を抱くことになる。しかし敵意を抱くことは不快なことであって、結局「意志は自己自身に苦悩する」ことになる。
 ハイデッガーはこのような意志そのものに巣食う「敵意」こそ、ニーチェの言う「復讐」の本質であるとすら述べる。ハイデッガーは意志することは憎むことであり、復讐心を抱くことだとまで述べるのである。(p206〜207)

 「ねたみ」や「復讐心」を生み出すのは、「意志」による、言い換えれば「能動/受動」の二分法的な思考原理の支配による、生の中動態的な在り様の抑圧であると、国分・ハイデッガーは、言っているわけだ。
 その「意志」の概念の現代哲学における最大の擁護者として、本書中で何度も言及されている(もちろん単純に批判されてるわけではないが)のが、上にも挙げたアレントであり、師弟関係にあたるハイデッガーアレントが、ここでは「意志」をめぐって正反対の位置にあるみたいになってることも、ちょっと面白い。


 その「意志」についてだが、国分によれば、中動態的なものの存在を抑圧している「能動/受動」の体制(本書の中核をなすのは、その文法的・言語的な基盤の分析なのだが)と相即的なものとして「意志」という概念の存在が考えられるようなのだが、それについては面白いことが書かれている。
 意志(自由意志)は、今日では脳科学の発達によっても否定されつつある想像物(仮象)であって、生の本来的なあり方を抑圧する装置であるともいえるが、しかし、それが仮象であり、抑圧を生むものだからといって、たんに否定してすむようなものではない(これは、マルクスの宗教に対する考え方に似ている)。
 人間は、生きていくうえで、どうしようもなく「意志」という概念を生み出し、それに依拠してしまうものである。そのことに、国分は、スピノザが精神のあり方について述べた「効果」という表現を使って注意を促している。スピノザは、いち早く「自由意志」の存在を否定した人として知られるが、同時に、「意志」という概念が生み出される不可避性のようなものにも注目した人だった。
そのことを、スピノザは、人は太陽が地球からはるかに遠いという「真理」を認識していても、日の光に当たると太陽が近いかのように実感してしまうという事実になぞらえて語っているという。

 太陽の光と人間身体が出会ったとき、両者のもつ特性ゆえに、そのような効果が発生する。スピノザは意志についても同じようにこれを効果として考えた。われわれの精神は物事の結果のみを受け取るようにできている。だからこそ、結果であるはずの意志を原因と取り違えてしまう。そのことを知っていたとしても、そう感じてしまう。(中略)そもそも、哲学者ハンナ・アレントが意志をめぐる考察のなかで明確に指摘しているように、スピノザは意志の自由を否定したのであって、「意志が主観的に感じられた能力としては存在していること」についてはこれをはっきりと認めているのだ。(p31〜32)

 「意志」は、実際の原因ではないのだが、人間が生きていく上で不可避的に「効果」として生じる、いわば仮象である。
 だが、その元来は仮象にすぎなかったものが、いつか実体のような地位を獲得し、抑圧の体制に化していく。その抑圧によって歪められた生から、「憎悪」や「復讐心」が生じる、ということになるだろうか。
 ところで、マルクススピノザの思想から大きな影響を受けているという説を聞いたことがあるが、『資本論』でマルクスが言っていることも、確かにこれとよく似ていると思う。
 たとえば、『資本論』第三巻で言われているのは、本当は(真理としては)生産過程における搾取の産物である「剰余価値」や、その単なる転化形態に他ならない「利潤」といったものが、神秘化されて、あたかも資本自体から発生してくるもののように思いなされるということ、たとえば交換(販売)過程で生じてくるものであったり、資本家の手腕によって手品のように生み出されるもののように、資本家の(そしてまた労働者の)主観には信じ込まれるという事実の異様さである。

 資本が生産過程と流通過程を経るその運動中に、この新価値を産み出すこと、それは意識されている。しかし、いかにしてそれが行われるかは、いまや神秘化されて、資本自体に属する隠れた性質に由来するもののように見える。(『資本論』第3巻第1篇第2章 向坂逸郎訳 岩波文庫資本論』(六)p74)

 つまりは、「効果」としての、言い換えれば、仮象としての資本というものに、マルクスは着目し、分析しようとしているのだ。

 
しかし、このように「効果」(仮象)に過ぎなかったものが、いつしか実体のように思いなされて抑圧をもたらすということが事実だとすれば、そしてまた、生身の人間が仮象を抱くということが避けがたいことでもあるならば、この仮象というものを(マルクスが考えていたであろうように)「真理」の名のもとに抑圧・排斥してしまうのではなく、その「効果」という地位に留めておく方法はないものだろうか。
言い換えると、元来は「効果」(仮象)であったはずの「善」というものを、アレントが批判した「絶対善」にするのではなく、その本来の次元にさし留めておくというのが、ありうべき良き未来への選択肢というものではないか?
国分の議論の方向性は、そういったところにあると思われる。


 ところで、スピノザが提示した、能動と受動の独特な定義について、国分は次のように説明している。ここで言われる「能動」とは、普通に言われる(近代的な)「能動/受動」の概念とは異なり、もっと肯定的な、この本で言う「中動」に近い概念だ。

われわれの変状がわれわれの本質によって説明できるとき、すなわち、われわれの本質を十分に表現しているとき、われわれは能動である。逆に、その個体の本質が外部からの刺激によって圧倒されてしまっている場合には、そこに起こる変状は個体の本質をほとんど表現しておらず、外部から刺激を与えたものの本質を多く表現していることになるだろう。その場合にはその個体は受動である。(p256〜257)

 これは、「憎悪」や「ねたみ」や「復讐心」といった、いわば悪しき「仮象」の氾濫のなかに生きている私たちに、一つの指針を示してくれる考え方だろう。
 スピノザ的な意味で、「われわれの本質」を十分に表現しつつ生きるということ、つまりは真に自由であることとは、何か。
 『中動態の世界』は、そのことを追求した本であることはたしかだが、その具体例としては、初めの方に書かれている、次のような文章が、特に大きな示唆を与えてくれるのではないかと思う。ここには、著者の言う「中動態」的な生の、核心の部分が示されているように思われるのだ。

逆の立場に立って考えてみればよい。相手に謝罪を求めたとき、その相手がどれだけ「私が悪かった」「すみません」「謝ります」「反省しています」と述べても、それだけで相手を許すことはできない。謝罪する相手の気持ちが相手の心のなかに現れていなければ、それを謝罪として受け入れることはできない。そうした気持ちの現れを感じたとき、私は自分のなかに「許そう」という気持ちの現れを感じる。
 もちろん、相手の心を覗くことはできない。だから、相手が偽ったり、それに騙されたりといったことも当然考えられる。だが、それは問題ではない。重要なのは、謝罪が求められたとき、実際に求められているのは何かということである。
 たしかに私は「謝ります」と言う。しかし、実際には、私が謝るのではない。私のなかに、私の心のなかに、謝る気持ちが現れることこそが本質的なのである。(p019)