滋賀の事件・容疑者の名前の報道をめぐって

PUBLICITYの竹山徹朗さんが、滋賀で起きた園児殺害事件の報道ぶりに対する違和感を、メルマガとブログに書いておられる。


ぼくは、ほとんど新聞やテレビニュースを見ない人なのでよく知らなかったが、こういう報道になってるのか。
容疑者の氏名のことを、竹山さんは書かれているが、99年に日本に移り住んでからずっと日本名でくらしてきた容疑者を、中国籍であるからという理由で、中国名でしか報道しないのは、ぼくも明らかにおかしいとおもう。


今回の事件にかぎらず、日本名を使って生活している在日外国人が犯罪の容疑者となった場合、(日本名ではなく)本名のみで報道されるということが、ここ数年でだんだんあたりまえになってきた。
ふだんは地域の生活のなかで日本名でくらしていて、マスコミをはじめ誰もそのことの意味を問題にしないのに、犯罪の容疑者や被告になったときだけ、「暴かれる」みたいに「本名」がもちだされる。
つまり、本名をもちいたのでは生活が困難な現実があったから日本名をもちいていたはずだが、その現実が問われることはない。そこでは「本名をもちいないこと」で日本の社会に適応しようとする態度が、むしろ暗黙に推奨される。いや、そうした態度をとることを、わたしたちの社会の側が強いているのだ。
それが、いったん犯罪者となったとたんに、それまでは使わせないようにしてきたこの人たちの「本名」というものを、なにかの記号のように引き出してきて用いる。
社会そのものへの問いは、どうなったのか?


本名というものが、「非日本人(たとえば中国人)=危険な人たち」というイメージを定着させるための道具として使われている、という印象をうける。つまり、ひとつのレッテルとして。それは、竹山さんが言われるように、「村」に閉じこもろうとする人々の意識を強めると同時に、「敵」を浮かび上がらせる役割をもはたすだろう。
言い換えれば、犯罪報道自体が、治安上、政治上の道具という色合いを強めている。そんなふうに感じる。


今回の事件にもどっていえば、個別の犯罪を、特定の属性をもつ人たちと関連づけるべきではないのと同様、社会のなかで特定の位置におかれている人たちと結びつけて考えるべきでもないだろう。
報道されることの多いこうした凶悪な事件が、人がいつ「孤立」に陥るかわからない今の社会のあり方と関係があるのだとすれば、その加害者には、ぼくも、あなたもなりうるのだ、という以外ない。
どんなレッテルをもちいたところで、「社会の病理」から逃れられる人間は、誰もいない。


自分たちがいま生きている社会の現実がどういうものかを、関心をもって考える機会は、こうした事件の報道に接することによって生まれる。そういう「自分たちが置かれた現実を考える」力を持った人が増えていくことによってしか、「より安全な」社会を作っていくことは本当はできないはずだ。
報道する側には、事実をていねいに伝えることでそうした機会を提供する義務があり、そのためには報道する人はやすやすと何かの「道具」になってしまってはいけない。
もちろんぼくたち自身も、そうした報道に不安や憎悪をかきたてられることによって、都合よく誰かの「道具」として使われることがあってはならないのだ。