備忘録・破壊される生活・持続する怒り

他の方のブログから、ここ二、三日で印象的だった記事をいくつか。


①「旗旗」さんの記事。

http://hatahata.mods.jp/modules/wordpress/index.php?p=283


テントを持っていない野宿者は、「シェルター」や「自立支援センター」には、入れない。
結局、これらの施設はテントを壊すための口実でしかない、ということ。
つまり、野宿の人たちというのは、路上に放り出されるしかない。
以前、このエントリーに「地球温暖化」にともなう気候変動のことを書いたが、これまで寒波や熱波が襲わなかった地域で、その被害が広がっている。
野外や路上で生活するしかない人たちは、その「凶暴化した気候」の猛威を直接受ける時代になっている。
こうした気候変動による死者は、世界中の都市で今後急激に増えると予測されているが、その大半は路上生活者や、貧しい地域に住む人たちではないだろうか。


② 「heuristic ways」さんの、この二つのエントリーは、ぼくにはインパクトが強かった。

http://d.hatena.ne.jp/matsuiism/20060216

http://d.hatena.ne.jp/matsuiism/20060218

『「絶望」を根こそぎにするには、この「(間違った)自己を措定した力」全体を「敵として指定する怒り」が必要なのだ。』


『つまり、それは、「社会の否定的代表者」として自己を「相手にむかって」「投げつけ」、自己の「性質を組みかえる」ことを恐れない勇気のことなのだと思う。』


そして、

『ここでは、「隣人」は「私の隣人とは誰か」という問いによっては答えられない。むしろ、「私」が「誰がその人の隣人になったか」という問いへの「答え」としてその都度見いだされるのである。』


という、生田武志さんの言葉。


③ この言葉は、p-navi infoさんで紹介されている、アルフォンソ・リンギスという人の、次の文章にも呼応するだろう。
 http://0000000000.net/p-navi/info/column/200602192102.htm

私たちと何も共有するもののない──人種的なつながりも、言語も、宗教も、経済的な利害関係もない──人びとの死が、私たちと関係している。この確信が、今日、多くの人びとのなかに、ますます明らかなかたちで広がりつつあるのではないだろうか? 私たちはおぼろげながら感じているのだ。私たちの世代は、つきつめれば、カンボジアソマリアの人びと、そして私たち自身の都市の路上で生活する、社会から追放された人びとを見捨てることによって、今まさに審判を受けているのだ、と。


その意味でも、同じサイトで紹介されているパレスチナの現状に関心をもたざるをえない。
「西岸地区」が、完全に三つに分断されつつある、という現実。
http://0000000000.net/p-navi/info/column/200602170456.htm


パレスチナのことはよく知らないのだが、以前、その地方の千年以上も昔からある村に行った日本人の女の人の講演を聞いたことがあって、「人間が生活するというのは、こういうことなんだなあと思った」と、その人は言っていた。
パレスチナと聞いて、そういう村の存在を思い浮かべる人は、あまりいないだろう。
その村も壊されていくのか。
やっぱり、うつぼ公園で行政代執行の日に見た光景を思い出してしまう。無造作に壊されていく、人の住む場所と生活。
世界中に、破壊されていく「生活」がある。


④ 再び、「怒り」ということについて。
Kwktさんによるレポート。『いちヘルパーの小規模な日常』の杉田俊介さんが参加されたトークイベント。

http://d.hatena.ne.jp/kwkt/20060218#p1

杉田さんにとって「怒り」とは、現状に対する(社会だけでなく自分への)違和感であり、短いスパンでの熱狂と失望(の上下)のようなものではなく持続する「怒り」であり、粘り強く継続的に考えて現実に投げ返していくということであると仰っておりました。


「持続する怒り」の重要さ。
そして、現実への粘り強い「投げ返し」ということ。