アンティゴネ・「喪」と「家」

アンティゴネ  ええ、もちろん。あのお触れを出したのは固よりゼウスの神ではございません、また、あの世の神々とともにいらっしゃる正義の女神ディケが、それを一つの掟として人の世に行き渡らせようなどとお考えになったものでもございません、それに私は夢にも考えませんでした、あなたのお出しになるお触れには私ども人間の思いも及ばぬ力が籠っていて、まさか文字には示しがたい神々の不滅の掟をも覆せるほどのものになるなどとは。神々の掟というのは昨日、今日、生じたものではなく、永劫の昔から生きているものでございましょう、いつこの世にもたらされたものか、それを知っている者は一人もおりませぬ。(福田恒存訳 新潮文庫オイディプス王アンティゴネ』より p134〜135)


ギリシャ悲劇最高の作品のひとつとされるソフォクレスの『アンティゴネ』は、死者の追悼をめぐる、国家の掟と家族の掟、ひとびとの掟と神々の掟との抜きさしならない対立を描いた作品として知られている。
故国テバイに反逆したポリュネイケスを絶対に許そうとしない、新たな王クレオンは、その屍を埋葬することを禁じるが、オイディプスの娘でありポリュネイケスの妹であるアンティゴネは永劫の昔から続く「神々の掟」の名のもとに、この国禁を破って兄を埋葬し喪の悲しみにくれ、クレオンの怒りにふれてみずから死の旅路を選ぶことになるのである。


だが、このような解釈を決定づけたのは、ヘーゲルの『精神現象学』だろう。
アンティゴネ』を読んでみると、たしかにそこでは、国の掟に先立つ神々の掟の優位がアンティゴネの口から繰り返し語られ、国家の存在を最優先して譲らないクレオンや、国禁を犯すことを姉に思いとどまらせようとする、彼女の妹イスメネとの間で厳しい対立が生じる。
だが、アンティゴネが兄の埋葬と追悼を、自らの死をかけて行うのは、ヘーゲルが言うように、家族の論理によるものだろうか。
ヘーゲルの場合、最初から国家の装置としての家族が考えられている。神々の掟は、国家共同体の無意識のようなものとして、家族と女性のうちに体現されており、この無意識の根源を持つことによって国家はその実質をえる、みたいな話になっている。

このため家族は、この共同体のうちで、自らの一般的実体をえて存立するが、これとは逆に、この共同体は、家族においてその現実性の形式的な場〔境位〕をえ、神々のおきてにおいて自らの力をえて、確証されるのである。(樫山欽四郎訳 平凡社ライブラリー精神現象学』下巻 p38)


彼の議論だと、妹であるアンティゴネの兄に対する思いの強さは、「性的欲望なき血縁関係」の情動を象徴するものとして、「人倫的」にきわめて高い価値を与えられもする。
精神現象学』におけるヘーゲルの『アンティゴネ』読解は、たしかに素晴らしいものだが、国家の掟に背いて喪を行い、みずから地下の死の国に旅立っていくこの若い女の行為を、「家族」という近代ドイツの国家体制にとって都合のいい枠組みに無理やりはめこんでいる感は否めない。まあ彼の哲学はもともとそういう意図を持っているのだから、仕方ないわけだが。


同じ血縁であっても、妹イスメネの悲しみは、国家の掟に背くところまではいかない。
アンティゴネは、まるで埋葬を求める亡き兄の声にいざなわれるかのように、自ら死への道をすすんでいく。それは、ヘーゲル的な家族や血縁の原理には回収しきれない情動のなせる業だ。
彼女が選んだのは、国家が支配するこの世の大地ではなく、その外部だというべきだろう。
それは、国家が支配し構成する空間のなかにはありえないような場所だった。
しかし、「喪」という行為は、そもそもそういう場所にだけ関わるのではないだろうか。


アンティゴネ』をめぐるヘーゲルの天才的な洞察のひとつは、彼がこの悲劇を、国家や家族による追悼の問題と結びつけて考えたことだ。
彼にとって、屍を埋葬し追悼することとは、死者を「鳥獣たち」の領域から、人間たちの、したがって人倫共同体のメンバーである家族と国民たちの領域へと奪取する行為だった。

意識をもたぬ欲望〔『アンティゴネ』の鳥獣たちの〕や抽象的な存在者が、死者を汚すこの行為を、家族は死者からとりのけてやり、その代わりに自分の行為〔埋葬〕を置いて、血のつながる死者を大地の懐に入れてやり、原本的な不滅の個人態にかえしてやる。こうして家族は、死者を一共同体の仲間にしてやる。つまりこの共同体は、死者に対し自由となり、死者を破壊しようとする個々の素材の諸々の力や、一層低い生物たちに、むしろ打ち克ち、これらを拘束するのである。(同上 p31)


ここで言われている「大地」が、国家が所有する土地、空間のことを指しているのは明らかだろう。
それは、「鳥獣たち」や「一層低い生物たち」を排除することで成り立っており、埋葬と追悼は、このものたちの領域から死者を奪回し、国家と家族に代表される空間のなかに、ようするに「ひとびとの」領域へと回収する営みであると、ヘーゲルはかんがえる。
彼の論理においては、死者の領域である地下は、家族という装置をとおして国家共同体に実質を提供するものであり、埋葬も追悼も、国家と家族、大地の上の空間と「地下の国」とが一組になったこの共同体の存在を確立する行為なのだ。


だが、アンティゴネが行おうとしたことは、このような意味での埋葬と追悼につきるものではない。
それは、何よりも、「喪」の悲しみだ。
「喪」は、国家に属さないのと同様、本来家族にも属するはずのない行為である。
それはむしろ、鳥獣の領域へ、死者をさしむけ、生きる者を解放する行為だ。

やがて、大分、時が経ち、嵐も過ぎ去り、そっと目を開けてみると、この方がじっと立っているではありませんか、そして大声を挙げて泣いているのでございます、それも、まるで雛鳥を奪われ、空になった巣を覗き見た時、親鳥が死にもの狂いで挙げるような、苦痛に満ちた鋭い叫び声、全くそうとしか言いようのないものでございました。肌を露に曝された亡骸を見た時、この方は小鳥さながら、声を挙げて泣き喚き、誰がこんな目に遭わせたのかと、恐ろしい呪いの言葉を浴びせかけておりました。それからすぐに両手で乾いた砂を掬って来て振り撒いたかと思うと、今度は見事な青銅の水差しを、型どおり三たび高く掲げて、亡骸の上に注ぎ掛けたのでございます。(上記『オイディプス王アンティゴネ』 p133)


この鳥獣のように嘆き悲しむ女は、死者を地下へと埋葬したわけではない。地上でも地下でもない空間、国家と家族の外部である、あるはずのない領域へと死者を送り、自らの魂を喪の悲しみによって、その領域に触れさせたのである。
この行為が、王クレオンを震撼させた。


このあるはずのない領域、空間は、ひとびととは呼ばれぬもの、鳥獣や死屍が住む場所である。
クレオンと共に、ヘーゲルこそ、その場所の実在性と脅威を知っていた。

この国の祭壇は、死屍を喰った犬や鳥たちのまき散らす悪臭で汚されている。そういう形で死屍は、それにふさわしく原始的な個体〔大地〕に送り帰されて、意識なき一般に高められているのではなく、地上の現実の国に止まっており、そこでいま、神々のおきての力となって、自覚的、現実的な一般性をもつことになっている。死屍は、自らの国家共同体に敵対の態度をとって、立ちあがり、それを亡ぼす。つまり家族の敬愛という共同体の力をもっていないで、これを破壊してしまった国家共同体を亡ぼすのである。(上記『精神現象学』下巻 p57)


だが、現実の国家の空間を脅かす、この「神々のおきて」の力は、家族に関係しているのではない。
アンティゴネをして、国家の掟に反逆させた「喪」の情動は、「家族」ではなく、むしろ「家」に関わるというべきだと思う。
「家」とは、もはやひとびととは呼ばれないものたちが隠れ住む、国家の外部の空間、避難所の名だ。「家」という概念は、「家族」という装置の発生以前には、もともとそのような外部性に関わっていたのではないだろうか。
そこは、鳥獣や死屍に類すると見なされるような、家族でも国民でも「ひとびと」でもないものたちが生を営む、ありえないはずの場所である。
おそらく「喪」の悲しみだけが、国家によって奪い去られたこの空間の可能性に、人々を触れさせる。「家族」ではなく、「家」の名においてこそ、アンティゴネは国家に歯向かい、自らの死を賭けて亡き兄を弔ったのである。

オイディプス王・アンティゴネ (新潮文庫)

オイディプス王・アンティゴネ (新潮文庫)

精神現象学下 (平凡社ライブラリー)

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