空間・マゾヒズム・条件刺激・馬・署名

まとめて五つばかり書く。


空間の意味の機能主義化


まず、早大でのビラまき逮捕事件に関するエントリーに、sumita-mさんからTBをいただいた。
「空間の意味の機能主義化」という概念は、分かりやすい。空間のありようが、機能性という物差しでしか計られなくなってきてるということか。ということは、そこで行動したり存在してたりする人間の方も、世界(空間)の利用者としてしかありえなくなる、ということになろう。「ブラブラする」とか、「たむろってる」ことが、認められない社会になってきてるのか。
ぼくのエントリーでも触れた、大阪府の青少年健全育成条例などをみても、それがうかがえるようだ。
嫌だね、これは。


マゾヒズム的な私


先日、こちらのエントリーで言及した田崎英明という人の文章、すごくインパクトが強かったので、岩波の「思考のフロンティア」シリーズの一冊である『ジェンダー/セクシュアリティ』という本を買ったのだが、最初の章の出だしからすごいことが書いてあった。

ジェンダー/セクシュアリティ (思考のフロンティア)

ジェンダー/セクシュアリティ (思考のフロンティア)

本書で, 私はできるかぎり理論的でありたいと思っている. つまり, マゾヒスティックでありたいと願っている. いいかえるなら, 理論はその本質においてマゾヒズムなのである. というのは, 理論(テオーリア)という言葉のもとを辿ると, 何でも, 古代ギリシャにおける一種の使節団を意味しているようなのだ. それは, 他の都市に派遣され, そこで行われるイヴェントにオブザーヴァーとして, まさにただ見るだけでそのイヴェントに参加はしないで立ちあう者たちのことなのである. 彼らは, 自らの都市に帰ってきて, 自分たちの見たことについて報告することになる.
(中略)
私の妄想のなかでは, 自分も参加したくてうずうずしているのに, それが許されず, ほとんど自分の席に縛りつけられんばかりに押さえつけられ, 身悶えしながら, ただ見ることを目撃者となることを強要される者たちの姿が思い浮かぶ(もちろん私の勝手な想像で何の根拠もないのだが). このように「見せつけ」られてしまった者たちは, 自分の都市に戻ってどんなふうに語るのだろう. (p1〜2)


ぼくがなにをこんなに驚いてるか、お分かりだろうか。
先月末、大阪市による行政代執行が行われるうつぼ公園に行ったとき、ぼくは抵抗や抗議の行動に参加するかどうかははっきり決めてなくて、むしろ「ただ見て報告する」つもりで行ったのだ、ということを前に書いた。


実際、ぼくはあの日に具体的な行動にはほとんど参加しなかったわけだが、それよりも、そもそも出かける段階で「ただ見て報告する」ことが自分の主たる役割だろうとおもっていたということは、ぼくのあのときの態度が根本的にマゾヒスティック(理論的?)な願望に裏打ちされていたことを意味するのではないか。
もしそうだとして、そのことの帰結が何かはまだよく分からないが、自分の行動への意志の根底に、そういうはっきりした欲望の性質みたいなものがあることに、上の田崎氏の文章を読んで思い当たったのだ。
そういわれると、まちがいなくそうである気がしてくる。
「行動に参加せず、ただ見て、報告したい」というのは、ひとつの明確な欲望の形態なのだ。自分があのとき、その欲望を十全に実現できたかどうかは別にして。
なんか、いろんなことがスッキリ見渡せそうな気がしてきた。



象徴とは条件刺激なり


きのうのエントリーで紹介した『快楽の脳科学』という本だが、ひとつ面白いなと思ったのは、次のようなくだりだ。

快楽の脳科学~「いい気持ち」はどこから生まれるか (NHKブックス)

快楽の脳科学~「いい気持ち」はどこから生まれるか (NHKブックス)

フロイトはフェティッシュな性愛の対象に性器や性行為を象徴する代理機能を認めたが、「象徴」とはすなわち条件刺激のことである。条件づけによる説明と精神分析による説明は一見合わないように思われるが、条件づけがはるかな過去に起こったと考えれば、じつは同じことを言っている。フロイトのように幼児が快を求める性質が性的なものだと考えると、その「はるかな過去」は幼児期にさかのぼる可能性もある。(p135〜136)


なるほど、「象徴」って、条件刺激のことなのか。明快である。
特にフェティシズムの説明としては、分かりやすいかも。


ヴァーミリアンは相当強い


日曜日のフェブラリーステークスだが、カネヒキリヴァーミリアンの4才馬同士で決まるのではないか。
この世代は、ダート路線では力が上位であるように思う。
特に平安ステークスを見た印象では、ヴァーミリアンは相当強い。


署名と名前


こちらのエントリーのなかでちょっと触れた「運動」における「署名」の呼びかけに関することで、後から思いついたことがある。
それは、こういう署名の場合、使うのは本名(戸籍上の名前)でなければいけないのか、ということだ。
ぼくの知っている人でも、こうした署名によく応じる人で、かならず本名ではなく、ニックネームのような名前しか使わない人がいる。
これには、便宜上の理由の他に、ひとつには制度上の名前をこういう場で使うことによって、戸籍制度とかを追認することになってしまうという意味もあるだろう。
もしこうした署名において、必ず本名(戸籍上の名前)を用いなければいけないと考えている人がいるとしたら、その理由はなんなのだろう?
要は「責任をもって」用いられる名称であれば、本名(戸籍上の名前)と呼ばれるものでなくても、いっこうに構わないと思うのだが。
上記の早大ビラまき事件の抗議サイトの呼びかけ文は、そういうふうにも読めるが。
まあ、そうなんだろう、きっと。
じゃなきゃおかしい。運動団体は役所じゃないんだから。


そういえば、先日の大阪での野宿者排除への抗議署名の呼びかけがこちらのサイトに出ていた。紹介しておこう。