大阪市公園問題の報道・人間らしく生きる

先日からとりあげている、大阪市の公園から野宿の人が排除されそうだという件の続報です。
今日24日に代執行令書というものが出され、それには期日が30日(来週の月曜)と明記されていたそうです。行政代執行(強制排除)は、この日に行われる可能性が高い、ということのようです。

報道への不満

このニュースは、ここ数日新聞の他、テレビのローカルニュースのなかでもとりあげられているので、関西圏の人は、こういうことが問題になってることは、知ってる方も多いと思います。
ただ、ぼくが見た限りでは、特にテレビでは、行政側の言い分はそのまま伝えてるのに、排除されようとしてる人たちの声は、ちゃんと聞き取ろうとされていないように感じます。これは毎日放送の夕方のニュースを見た感想ですが、インタビューが並べて放送されてるのが、市の責任者と、当事者の野宿されてる方です。これで、「両サイドの言い分を公平に報じた」というつもりでしょうか?
前にもちょっと書きましたが、こういう行政の施策の妥当性に関する事柄を報道する場合に、行政側の発言に対置されるべきなのは、行政の意見に批判的な法や行政についての専門家(専門知識を持っている人)の発言ではないかと思います。そうでないと、公平にならない。専門的な知識等のない当事者の方の意見というのは、それとは別個に「当事者の声」として伝えられるべきものではないでしょうか。
あの報じ方だと、行政側の言い分の見かけの妥当性(合法性)だけが印象に残って、野宿してる人の方は、「ごねている」ようにしか映らない。
これを見ても、報道する側は、行政側の言い分だけを聞いて、表面的にしか出来事を伝えようとしていないように感じられます。
なにか、「不法占拠してるのだから、追い出すのは当然」、「騒いでいるのは、ホームレスのわがままだ」といった結論が先にあるかのような、印象を受ける報道でした。


今回のことについては、先日紹介した『釜パトブログ』というサイトに、経緯やいきさつが詳しく書かれています。
これを読むと、行政代執行へとすすむ大阪市の対応のスピードが異常なものであることや、そもそもある時期から、市は当事者や支援者の人たちとはまともな交渉をすることを拒み続けていた、ということが分かります。
また、市が、テントから出ていった場合の収容施設として提示している「シェルター」や「自立支援センター」といったものが、劣悪な環境であったり、居住できる期間が短く限られていたりして、テントを失った人たちが早晩路上に放り出される可能性が高いシロモノであるということも分かる。
報道する側は、こういう経緯や事情を、ちゃんと調査したのだろうか、いや、調べる意志があったのだろうか、と思います。

「生きる権利」とは

報道に関する不満は以上ですが(一応、番組宛に苦情を書き送りました)、ひとつ自分の考えを書いておくと、この事柄というのは、行政代執行という行為の暴力性ということを別にしても、たしかに人の生死に直接関わるものです。上に書いたように、テントを奪われた人は、一時的には施設に収容されても、早晩路上に放り出される可能性が高いわけですから。「先日の生活保護についての番組を見たときにも思ったことですが、現在の社会では、「行政」というものが人が生きることを助けるものから、人の命を奪うものへと変わりつつあるのではないか、そんな恐怖をひしひしと感じます。


ただ、そうはいっても、公園にテントを張って暮らしている人たちの権利をどう守っていくかという原理的な問題としては、「生死に関わる問題だから」ということだけを言っていては、本質を見失うと思います。
「公園から追い出しても、施設に収容すると言ってるのだから、命を奪うわけではない」というのは、行政側の言い分で、「公共の利益」とか「合法性」というもっともらしいことを言われると、こちらのほうが説得力をもってしまう。
本当は、もっと別のことを主張しなくてはいけない。


それは、「ホームレスだから、劣悪な環境で生きることも耐えなくてはいけないのか」ということです。
上で紹介した『釜パトブログ』の記事にもあったと思いますが、公園のテントで暮らしている人というのは、劣悪な環境の施設に入れられるよりは、現状の生活の方が自由やプライバシーもあり、仲間とのつながり(コミュニティー)もあるので、より好ましいと考えている。
行政側はそういうものを否定し、壊して、「住むところを提供してやる」といって施設に押し込めようとしてるわけですね。生命や生活の破壊という意味で言うなら、もうこの時点で、行政は「人を殺してる」んだと思います。


つまり人間が「生きる権利」という場合に、そこにはただ生命を維持してるというだけじゃなくて、少しでも人間らしい暮らし、自分らしい生き方というものを求める権利がある、そのことを指しているんだと思う。
行政の言い分だと、「ホームレスのくせに、そんなのは贅沢だ」「最低限、生きてるだけで我慢しろ」ということでしょう。
まずこの言い分に抵抗しなくてはいけない。
これは、ぼくら自身の日常においても同じだと思うんですが、本当はここが勝負なんです。
そうでないと、この言い分が通った時点で、もう生きてることの価値は消されてるわけだから、行く末は目に見えている。


この「人間らしい暮らし」「自分らしい生」を求める権利を主張すること、また認めることというのが、公園のような公共的な場所で人が緊急避難的に暮らすことをどう考えるか、ということにも深く関わっているはずです。
最終的には、そこを主張していかないと、「合法性」とか(狭義の)「公共性」をたてにとった行政(権力)側のもっともらしい言い分に呑み込まれていってしまうのではないか。
そのように思います。