映画・不死・家族・欲望

前回の拙エントリーについて、『Freezing Point』さんで特に言及、TBをいただいた。
こちらのサイトの記事に刺激を受けて書いたエントリーでもあったので、今回はそれを踏まえてもう少し書いてみたい。
ぼくが最後に書いた一行(引用されているもの)に関して、ueyamakzkさんが、ここでいう欲望とは『イマジネールな固執や情念(ナルシスティックな自己確証)のことではないか』と書いておられるのは、さすがに鋭い指摘である。
同時に、ぼくが書きたかったのは、そうした情念のようなものが、「通常の意味での社会」から到来するものであり、「今日の社会運動」には、共同体の形成の方向として、そういう社会のあり方からの離脱を目指す志向が隠されているのではないか、ということだった。ここで言う「通常の意味での社会」には、現在の資本主義の市場社会とか、家族といったものが含まれると思う。


ところで、そのことを考えるのに、ぼくのエントリーでは、欲望という言葉を二つの異なる意味で用いたので、読者の方々にはそこが分かりくかったのではないかと思う。
ueyamakzkさんは、この点を整理して、こう書かれている。

「汝の欲望を断念してはならない」はラカン派の倫理綱領で、それは想像的なものではなく象徴的なものに関わると思う。 つまり、「欲望を諦めない」ことが「去勢」。


ぼくは精神分析にも、ラカンの理論にも、ほとんど素養がないのだが、これまで読んできたものの影響などから、上のような欲望に対する肯定的なとらえ方を、自分もするようになった。
そこで、「固執や情念」を生じさせ人を一般社会の「るつぼ」へと追いやるような想像的な欲望と、その断念によってこそ肯定されるような「象徴的なものに関わる」欲望とを区分し、その関係を考えるということを、前回のエントリーではやろうとしたことになる。
つまり、前者の(想像的な)欲望を断念することが、後者の欲望を肯定し、その現実化(社会化)への道を開くのではないか。
その実践を「今日の社会運動」のなかに見出そうしたわけだが、とはいっても、この二種類の欲望の相違と関係をどう考えるかは、非常に難しい問題であることも事実だ。
それは、ぼくが他者への欲望に関して(それが想像的、一般的な欲望であっても)、ラカン派のように倫理的(禁欲的)ではないからかもしれない。


この二つの欲望の関係について、ここでは映画を例にとって、もう少し考えてみよう。

小津映画における「欲望の断念」・不死への欲望

小津安二郎の作品の多くに共通して描かれているテーマは、「欲望の断念」ということだ。その多くは、先行世代の、端的にいうと親の欲望の断念である。
このテーマは、戦前の作品から一貫しているものだが、特に戦後の三つの代表作を例にとろう。


麦秋』の東山千栄子が演じる母親は、敗戦後数年が経っても南方の戦場から帰ってこない息子がまだ生きているのではないかという思いを捨てきれずにいる。本当は、息子は戦死したに違いないと分かっているのだが、それを完全に受け入れることが忍びないのである。
この母親が、息子の嫁である原節子に、「息子はもう死んだのだから」と言って再婚を勧める場面は印象的だ。母親は他人である嫁の将来のために、息子の生存に対する自分の執着を捨てようとするのである。
また『東京物語』では、下関から東京に出てきた笠智衆演じる老父は、自分の思い通りに出世しておらず大都会の片隅で平凡な家庭を営んでいる子どもたちに失望して、「もう少し立派になっとるかと思ったが」と愚痴を言い、「東京は人が多すぎるんじゃ」と呟くのだが、そんな老父に、かつての同僚である東野英治郎は「それは親の欲だ」と繰り返して言う。


この「欲だ」という言葉は、『麦秋』の東山千栄子のことを想起しなければ、はっきり意味が見えてこないだろう。
つまりこの東野英治郎の台詞には、子どもが生きているということ自体を大事に思うべきで、それ以外に、子どもたちが「多すぎる人たち」との競争の勝利者であることを望むのは、「親の願い」ではなく「欲」という別のものだ、という意味合いがこめられているのではないか。
「欲望」(想像的な、通常の意味の社会における)というものの介入によって、親の子に対する思いは、「命への願い」からそれて、競争による生の価値の否定や、自他の生存の抑圧につながるような別のものに変質してしまう、という事実が、この短いやりとりのなかで語られていると思うのである。


三部作とも呼ばれる戦後の三つの代表作のなかで、『晩春』は、この「親の欲望の断念」というテーマを、もっとも切り込んで描いている。
笠智衆の演じる父親は、妻を失って娘(原節子)と二人きりで暮らしているが、その娘の自分に対する強い愛着を断ち切らせるため、自分に再婚の意志があるかのように装うことで、娘に結婚を決断させる。
この映画は表面的には、娘の父親に対する潜在的な欲望とその断念の過程を描いた映画のように見えるが、その背後には「親」の側のもっと根本的な断念が隠されているのである。
娘が嫁いだ夜、一人きりになった暗い部屋で、ナイフを使って剥いていた林檎の皮が切れて床に落ちた拍子に、まるで死んだようにがっくりとうなだれる老父の抜け殻のような姿を、ラストシーンで目にすることで、観客ははじめてそのことにはっきり気づくのだ。


この場面には、『麦秋』の母親と同じく、娘の人生を「生かす」ための、親の欲望の断念ということが描かれている。だが、その欲望とは、どういうものだろうか。
重要なことは、それが父親の娘に対する潜在的な性的欲望というわけではないことだ。
むしろそういう種類の欲望(エロス)ならば、社会倫理の侵犯にはなりえても、生や命の価値の否定には直接つながらない。
父親が断念したのは、もっと別のもの、つまり自己の不死への欲望なのだ。
それは、自己の一般的(社会的)な欲望を断念するということであり、想像的な不死の生を断念することによって、次の世代へと生のバトンを渡し「家族」という象徴的な秩序を形成していこうとする行為としての、「欲望の断念」である。


東京物語』で「親の欲」と呼ばれていたものの、本質はこの「自己の不死への欲望」なのだ。親の子に対する願いという、命にまつわる思いが、「競争」のような社会的な要素に浸透されることによって、この思いは(通常の意味での)社会の性質に感染して想像的なものとなり、「不死」、つまり自己が死ぬという事実性の否認という想像的な欲望にとりつかれるのである*1
親は、子の死に対する否認や、子の出世や、自分と暮らし続けることを欲望することによって、実際は自己の不死を想像的に欲望しているのだ。
忘れてならないのは、この「不死への欲望」という想像的なものは、外から、つまり「通常の意味での社会」(競争原理の社会)からやってくる、ということだろう。


今日の社会が、断念すべきである欲望とは、まさにこの先行世代が持つ不死への欲望であると思う。
新自由主義うんぬんという、イデオロギーや政策の問題を脇において、証券や金融が隆盛を極める現在の資本主義社会についてぼくがもっとも異様に思うのは、社会全体が、この「不死の欲望」にとりつかれて想像的な空間のなかで浮遊しているように見えることだ。
ぼくはそこに、「欲望の断念」を忘れた人々の、醜悪な我執の影を見る。
共同性(連帯)を可能にする社会的な形式の継承は、とりわけ先行する世代が自己の死の現実性を受け入れることによってしか実現しない。不死の欲望の断念を、先行したものたちが拒み続ける限り、「現実の」社会のあり方は、いつまでも想像的なもの(るつぼ)であるしかないのである*2


小津における「家族」の思想

ところで、こうした「欲望の断念」によって、生のバトンが渡されていき、世代を越えた象徴的な秩序が形成されるのだという感覚こそ、小津映画における「家族」の思想の核心だといえる。
小津が描く家族は、親が自己の死を受け入れる(断念する)ことによって成り立つ「形式」であり、このため親は、『晩春』や『麦秋』の有名なラストシーンのように、強烈な虚無の影のなかに描かれることになる。
小津映画は、たしかに家族を描いているが、家族を賛美する映画ではなく、家族という形式(秩序)のために自己が欲望を断念していく現実を、冷徹に描き出した映画である。
それは、人間の社会性の維持のためには、こうした断念が不可欠であることを正確に描いているが、そこで維持されていく社会性そのものに、想像的で一般的な意味での欲望ばかりでなく、エロスや「生への意志」を含んだより肯定的な意味での欲望までも抑圧してしまう性格がある場合には、こうした「欲望の断念」が親たちに抜け殻のような陰惨な相を帯びさせもするという事実も、暴きだしているようにみえる。


ここに、ぼくが冒頭に書いた、「欲望の分離不可能な二重性」とも呼べる問題が、顔をのぞかせているように思う。それはおそらく、小津が共同性の現実的なあり方としての社会制度(ここでは、特に家族制度)の変更の可能性を、ほとんど認めていなかったということに関係するのだろう。
小津は、「家族」という共同性の核心を正確にとらえたが、そこに関係(社会性)についての肯定的なビジョンを見出すということはなかった。小津の目の前にあった家族は、(いかなる意味でも)欲望を抑圧する装置であるほかないものと考えられたからだ。
ただ彼は、人が人として社会のなかで生きるためには何が必要かということ、つまり「欲望の断念」の重要性を描き、同時に「家族」の現実のあり方からは距離を置くことによって、自分の(象徴的な、同時に個人的な)欲望を断念することを拒みとおしたのだと思う。
だから小津の「家族映画」は、「家族の(また家族のための)空虚」を描いた映画だといえると思う。


このことは、小津がただ「欲望の断念」をテーマにし続けた作家であることを意味しない。むしろ彼は、想像的な欲望(不死の欲望)の断念によって形成され維持される共同性を信じようとしたのであり、眼前の社会の変革に対する深いシニスムにもかかわらず、そうした見えざる共同性への欲望を決してあきらめなかった人といえるのではないか。
想像的な欲望の断念の強さは、象徴的な欲望の強さを保証し、証明しているのだ。


ペドロ・コスタと共同性の未来

ぼくは以前、『ヴァンダの部屋』というポルトガルの映画について書いた。


この映画の監督ペドロ・コスタは、小津をもっとも重要で敬愛する映画作家としてあげているが、インタビューのなかで、『晩春』のラストシーンに言及している。
ぼくの考えでは、現代のポルトガルのスラムに暮らす若者たちの退嬰的で絶望的とも見える日常と、そこに芽生えかけているぎりぎりの連帯のあり方を描いた映画『ヴァンダの部屋』の監督が、小津から受け継いだものの思想的な核心は、上に書いた「断念」である。


それは、「多すぎる人たち」との競争によって生を価値づけ、その勝利者として生活や社会を形成していこうとするような欲望を断念するということであり、小津もペドロ・コスタも、この断念によって、より重要な何かを諦めることを拒んだのだ。
言い換えれば、小津からペドロ・コスタへと受け継がれたのは、(通常の社会における意味での)欲望を断念することによって、生きていることの根本的な価値にもとづくような生活と社会を作ろうとする「欲望」を決してあきらめない、という姿勢だったのではないか。


小津はそこに、来るべき共同性のビジョンを描こうとしたわけではなく、あくまで「家族」という象徴的な秩序が形成されるメカニズムを描き出した。
現代を生きるペドロ・コスタが、その来るべきビジョンを提示しようとしているのか、それは分からない。ただ彼には、「家族」はもはや確固たるものとも、回帰することが可能なものとも見えていないはずだ。その地点から、彼は小津と同じく、想像的な欲望の断念をとおして象徴的な秩序が形成されるという不可視のメカニズムの行く末を見つめようとする。
その視線が、『ヴァンダの部屋』に描かれた若者たちの、ぎりぎりの連帯を模索する姿をとらえているのだと思われる。
ぼくが前回のエントリーで、「今日の社会運動」のイメージにこめたのも、若者たちへの同様の希望だった。

ヴァンダの部屋 [DVD]

ヴァンダの部屋 [DVD]

*1:これはやや疎外論的な解釈だが、ここではこう書いておく。

*2:付言すれば、両世界大戦間期のいわゆる「ファシズム的な」思想や文学が放つ魅力が、今日抗しがたいものに映るのは、それらが「死」とある種の欲望の価値についての語りを中心的なテーマとしているからだと思う。