引き続き、野宿者強制排除の件

書きたいことがいくつかあるのですが、このところ書いている大阪市の公園の野宿者追い出しの問題が緊迫してきているので、今日もこの話題をとりあげます。
情報では、来週明けにも行政代執行(強制排除)が行われるかもしれない、ということです。


先日からトラックバックなどをいただいているp-navi infoさんやid:matsuiismさんのところで紹介・言及されている、『釜パトブログ』掲載の今回の件についての経緯説明の文書。
これは「失業と野宿を考える実行委員会」というところが出したらしいんですが、身内のMLで同じものがぼくのところにも回ってきました。
たいへん詳しく経緯や意見がまとめられています。


ここでは、ぼくなりにポイントをあげて、自分の考えを述べておきたいと思います。
(なお、今回の件についての大阪市への抗議の送り先は、上記の文の最後に記されています。)


① まず、「経緯」を読んでいて気づくのは、大阪市側はテント村自治会や支援者を含めた人たちとの話し合いを拒否して、各テントへの個別訪問で事を強引に進めようとしてきた、ということ。


これは、先日の生活保護の現状についてのドキュメンタリー番組を見ていてぼくもよく分かったんですが、たとえばホームレスの人とかが、一人で役所の窓口に行って生活保護の申請をしようとしても、けんもほろろに追い返されることがほとんどだということ。「住所のない人には受給資格がない」というような嘘を言われて、追い返されたりする。自分の身になって考えても分かりますが、野宿している人たちのような状況で行政から個別に対応されたら、よほど法知識や交渉の経験がないかぎり、自分の権利は守れず押し切られてしまう。
自治会や支援者を含めた話し合いを拒絶するという市側の態度は、はじめから力ずくで自分たちの意向を押し通し、ここで生活している人たちを追い出してしまおうとするものだと思います。


② それで、予定通りにというか、行政代執行という流れになった。大阪市は、裁判も待たずに、異例のスピードで、大規模な実力行使による強制排除を行おうとしている。
行政代執行の実態については、昨日の繰り返しになりますが、こちらを参照してください。

http://0000000000.net/p-navi/info/news/200601171709.htm

http://kamapat.seesaa.net/article/11750058.html


③ 次に文書では、大阪市がテントを出て行く代わりの支援策として提示している、シェルターに移るということは、「選択肢」と呼べるようなものではないことが説明されています。
シェルターの居住環境は、食べ物も(一日白飯一食しか)プライバシーも保障されないきわめて劣悪なもので、耐えられずに出て行くことになった人たちは、路上に放り出されるしかないことになる。
もうひとつの「選択肢」として出されている自立支援センターというのも、同様にプライバシーのない劣悪な環境であるうえ、最長六ヶ月しか居られず、その間に仕事を見つけられなかった人は野宿に逆戻り、やはり路上に放り出されることになる。

これらの施設は、行政が文字通り「排除の受け皿」として用意したものです。入所後の生活に何らの展望もなく、退所後の保障もなにもないシェルターは、仲間たちが自分たちの力で築き上げたテント(仲間同士の相互扶助関係も含めて)の代替策にはなりえないのです。


このくだりを読んでいて思うのは、野宿の人たちがテントで生活するというのは、自力で生きるために相互のプライバシーを保ちながらコミュニティーを作っているということで、それを否定して劣悪な生活環境のシェルターに押し込んでしまうというのは、生活の否定、人々が自力で生きていこうとする営みを頭から否定するところに成り立つ政策なんだ、ということです。
まして、そこを退所した後には何の保障もないというのは、人の生命をまともに考えていないとしか思えません。
「不法占有」していて邪魔だから、とりあえず一時的に狭いところに押し込んで、公園から追い出すというのは、生きている人間に対して行う政策ではない。


これは、この後にも書かれてますが、今の社会状況だと、今後野宿せざるをえない人たちというのは、たくさん出てくるだろう。
そのときに大事だと思うのは、どういう状況であっても人間がコミュニティーを作って、あるいは単独ででも生きていける条件が確保されている社会を作る、ということだと思います*1
むしろ、野外で生きるということを、人間の基本的な生活のあり方のひとつとして考えるべき時が来ているのではないか、とさえ思います。
公園から野宿者を排除するということは、仕事と家を失い、野外で生活せざるをえなくなった人間には、強制排除と強制収容しか道が残されていない、結果的には多くが路上での死に追いやられるような一本の「選択肢」しか残されていない社会を作ってしまうことにつながる。


これは、先日書いた環境破壊のことにもつながると思うんですが、人が消費社会のシステムとか、人工的な居住環境の外(野外)で、互いに助け合いながら自力で生きていくための空間そのものが、特に都市部においては抹消されつつある。
これは、人々が生きていく仕方の可能性を、ものすごい狭い幅のなかに押し込んでしまうことに通じるし、現実にいますでに多くの人たちの命がそこで失われていっています。


④ その意味でぼくは、この文書のなかの次の項目には、深く同意します。

<居住権は生きるための権利>
 靱公園大阪城公園の問題は、けっしていまそこに住んでいる数十人の仲間だけの問題ではありません。棄民化政策ともいうべきこの国の流れが止まらないかぎり、失業し路上へと叩きだされる人々は増えつづけるばかりです。そうした人々にとって、路上や公園に荷物を置いたり、テントを張ったりすることは、生きるための当然の権利として認められるべきではないでしょうか(公園は、もともと「避難場所」としての役割もあるのですから)。強制排除が行われれば、おそらくフェンスの設置と24時間のガードマン巡回が行われ、野宿者がそこで生活することは不可能になるでしょう(すでに、新築は執拗に妨害されています)。このことは、いま住んでいる仲間のみならず、これから野宿に追いやられていくであろう無数の人々の生きる権利を奪うことにもなります。
 私たちは、野宿を余儀なくされた仲間がテントや路上で生活することの権利は、憲法25条の生存権国際人権規約社会権規約の居住権として保障されなければならないと考えます。


路上であれ公園であれ、基本的に人はそこで生きる権利があり、居住する権利がある。
それを認めたうえで、行政の方針や、周囲に住む人たちとの間に生じる問題は、立場の対等を前提とした話し合いによって解決されなければならない。
その解決を、暴力ではなく、話し合いによって行うということは、特により強い力を持っている側(この場合、行政)に努力するべき責務がある。
このことが守られないと、今後の社会で構造的に生み出されていくであろう、多くの路上生活者たちは、生存そのものを否定されることにつながってしまう。


今回の大阪市の決定と行政代執行というのは、いま当事者になっている人たちの生活と生命にかかわるだけではなくて、われわれが住む社会の今後のあり方に関わるものであると考えます。

*1:後で出てきますが、これは法的には、基本的な生きる権利の問題で、法律や行政の方針よりも優先して考慮されるべきだと思います。