デリダ『歓待について』 その2

歓待について―パリのゼミナールの記録

歓待について―パリのゼミナールの記録


前回も書いたように、この本に収められたデリダの議論で、ぼくがもっとも注目するのは、彼が「歓待」を「欲望」の問題として、家族的な共同体における権力というテーマと重ねて考えている点だ。
「家族的な」という言葉の意味は、後で出てくる「父的でファロス=ロゴス中心主義的な婚姻のモデル」というデリダの表現に重なり、オイディプスヘーゲルの思想が、とりあえずそれを代表するだろう。それはどこかの地域の歴史や現在の社会のなかというより、われわれの内部にあって今われわれを呪縛している共同性のモデル、ということだろうと思う。
ぼくにはこれは、非常に今日的な問題に思える。


二つ目のゼミナールでは、(一つ目のゼミナールに続いて)ギリシャ悲劇、ソポクレスの『コロノスのオイディプス』が幾度も引用されて詳細な検討が加えられていく。
禁忌を侵した盲目の父オイディプスは、異国の地で死ぬが、その父が埋葬された墓所の在り処は秘密とされ、娘アンティゴネにも知らされることはなかった。
アンティゴネは、父の墓所の在り処を教えてもらえないことにより、嘆くことによって死者を断念し諦めるという可能性を、奪われてしまうのだ。
デリダが、「際限のない喪」、「無限の喪」、「不可能な喪」と呼ぶ事態だ。

この死は、異邦人が異邦人になることであり、異邦人になることの絶対的な地点です。というのも、死においても墓碑の可視性が異邦人を再固有化することができたはずだし、それが一種の祖国への復帰を意味することもできたはずだからです。ところが、この場合には、はっきりした墓もなく、可視的で現象的な墓碑もなく、たんに秘密の埋葬、近親者にも娘にさえも見えない非―墓碑があるばかりです。だから死は異国の地でますますよそよそしいものになっていきます。(p122〜123)


このくだりは、多くの示唆を含んでいるだろう。
だが、さらに重要なことがある。


オイディプスは死に臨んで「異邦人」として訪れた異国の地で、自分の墓所の在り処を秘密にするという誓いを立てさせたことによって、この異国の主人を「人質」にし、ある仕方でこの異国(土地)を支配する「掟」となったと、デリダは考える。
ここでは『すべての人間が死者の人質なのです』と、デリダは言う。
ここでたいへん興味深いのは、「異邦人」として、客として到来したオイディプスが、逆に異国の地に「掟」となって留まる(埋葬される)ことによって、この異国の主人の支配者となると共に、この主人の権力を保証し、その源ともなるという、逆説的な事態が語られていることだ。
これは、政治的には次のように翻訳される状況だ。

異邦人(=外国人)は外からやって来て、国や家、我が家に入り、立法者として法を作り(=場を支配し)、民族や国家を解放します。民族や国家は異邦人に呼びかけたうえで、彼を入らせるのです。あたかも(つねに「あたかも」が法を作る=支配する)異邦人が主人を救い、客の権力を解放することができるかのように。(P129〜130)


デリダにとってこの政治的な状況は、主人と客をめぐる、「歓待としての欲望」という基本的な権力構造のひとつのあらわれにすぎない。
主人が客の到来を欲望し、客を歓待することを欲望するのである、自己の権力のために。それが、歓待の秘められたもうひとつの本質であり、ヨーロッパの伝統でもある「古典的な歓待」は、そうした歓待の堕落=倒錯した形態に陥る危険をはらんでいるものとみなされる。
デリダはこの倒錯した事態を語るために、クロソウスキーの有名な小説『歓待の掟』の一節を引きながら、次のように述べる。

異邦人、つまりこの場合待たれる客は、たんに「来なさい」と言われる誰かなのではありません。客は「おはいりなさい」、待つことなくおはいりなさいと言われる誰かであり、われわれの家で待つことなくお休みなさい、急いでおはいりなさい、「中に来なさい」、「私の中に来なさい」と言われる誰かなのです。たんに私に向ってではなく、私の中になのです。私を占領しなさい、私の中に場を占めなさい(=お座りなさい)。このことは同時に、私の代わりにもなりなさい、私を迎えに来たり、「私の家に」来ることだけで満足してはいけません、ということも意味します。閾を通過すること、それは入ることであり、たんに近づいて来たりすることなのではありません。(p129)

家の主人は自分の家にいるが、客の力を借りて自分の家になんとか入り込むことができるのです。外からやってくる客の力を借りて。(p131)


ここまで来ると、前回書いた「絶対的な歓待」と「限定的な歓待」とが、現実には分離しがたいものであることが分かってくる。
「私を占領しなさい」「私の代わりにもなりなさい」という呼びかけは、「絶対的な歓待」から発せられるもののように聞こえるが、それは同時に「客の力を借りて」、自分が現在陥っているある種の束縛から解放され、より強固な権力を得ようとする、主人の欲望の声でもある。
だから人は、常に「歓待としての欲望」の倒錯=堕落した誘惑にさいなまれる存在である。
「絶対的な歓待」という理念を、欲望による倒錯=堕落から切り離すことは、本当に可能なのだろうか?
デリダはそれについて、明らかなことは語っていないと思う。むしろぼくには、デリダは、「自己」(主人)にとって破壊的なこの「欲望」の力のなかに「絶対的な歓待」の唯一の可能性を見ようとしているように読めるのだが。



ところで、オイディプスの物語にせよ、語り手の伯父オクターヴが妻ロベルトを客たちに抱かせる『歓待の掟』にせよ、これらのゼミナールで語られてきた例には、歓待の権利について、異邦人との関係についての、同一の構造が支配していると、デリダは述べる。

同じものとは、父的でファロス=ロゴス中心主義的な婚姻のモデルです。歓待の掟を課すのは、家庭の暴君、父親、夫、主人(パトロン)、家の主などです。この数週間検討したことですが、この者は掟を代表し、掟に服従することによって、他者をも掟に服従させ、歓待の権力(=能力)の暴力、この自己性の潜在的能力を行使するのです。(p145)


また、そこでは「歓待」は、同一性(家、自己)の主人としての「倫理」や「責任」の問題と重なっていた、とも語る。
これらは、非常に重要な指摘だと思うが、そこからデリダはさらに奥深くへ進もうとする。
「歓待」が「倫理」と重ならず、『ある種の「倫理」』よりも上位に置かれていると見られるような状況について検討しなければならない、というのだ。
それは、旧約聖書のなかのいくつかの話に見られる、家の主人が、泊めている客(異邦人)を押しかけてきた粗暴な男たちから守るために、自分の娘や側妻(そばめ)たちを代わりに差出す、という事例である。
これらの話のなかに、デリダは『男色(ソドミー)と性的差異』による歓待のヒエラルキーを読み取る。客である異邦人の男性は、押しかけてきた男たちによって犯される危険に瀕しているのであり、それを防ぐために(歓待のぎりぎりの形として)、主人は女性である自分の近親たちを身代わりに犯させたのだ、というわけだ。
ここには、セジウィックが指摘するような、同性愛的な欲望の抑圧と、男性中心主義的な社会秩序とのつながり、それを基盤とする「同質的な社会」の形成と「他者(同性愛者、異邦人、性的惑乱)の排除」という構造が、読み取れるのではないだろうか。
本書の最後でデリダが問いかけているように、こうした性と性差に関する構造が、「古典的な歓待」の伝統の底に流れているのだとすれば、それは多分(「歓待」を不可欠の契機とする)近代的な家族的共同体の権力の、根幹に関わるような事柄だろう。
それはまた、われわれが「家族」と呼ぶものばかりでなく、「(性的な)欲望」と呼ぶものの本質にも関わる構造なのかもしれない。
近代的な家族は崩壊しても、それを支えてきた欲望や権力の構造は、別の形の共同体のなかで再生され、むしろこれまで以上にわれわれを苦しめつつあるのではないだろうか。