宮沢賢治『毒もみのすきな署長さん』

宮沢賢治全集〈6〉 (ちくま文庫)

宮沢賢治全集〈6〉 (ちくま文庫)


宮沢賢治の童話のなかでも、この作品は語られることが少ない。
ちょっと変わった話である。


西域か中央アジアのあたりを彷彿とさせるプハラという国(町)には、次のような法律があった。

「火薬を使って鳥をとってはなりません、
毒もみをして魚をとってはなりません。」


毒もみというのは、木の皮と木炭を混ぜたものを水中にもみだすことで、これをやると魚はみな毒を飲んで死んでしまい、水面に腹を出して浮かんでくるのである。
そこで、この漁法を取り締まることが、この土地の警察の重要な職務になっていた。
ところが、この町に新任の警察署長がやってきてから間もなく、この町の河で毒もみを使って漁をするものがあらわれる。
はじめ署長は熱心に犯人を捜しているようだったが、やがて実は署長自身が毒もみ漁の犯人ではないか、という噂が子どもたちからはじまって起こってくる。
あまりに噂が広がるので、町長が署長のところに訪ねていって話すと、自分が犯人であることを署長はあっさりと認める。
結末はこう書かれている。

さて署長さんは縛られて、裁判にかかり死刑ということに決まりました。
いよいよ巨きな曲がった刀で、首を落とされるとき、署長さんは笑って云いました。
「ああ、面白かった。おれはもう、毒もみのことときたら、まったく夢中なんだ。いよいよこんどは、地獄で毒もみをやるかな。」
 みんなはすっかり感服しました。


賢治の弟の宮沢清六は、署長をはじめとするこの作品の登場人物たちについて、「実はこの人達のようなのが賢治の好きでたまらなかった人間型であったようだ」というコメントを残しているそうだが、分かる気がする。
賢治については、読まれる時代に応じて、自己犠牲の精神の伝道者とか、農村の救済者とか、エコロジストとか、仏教的な思想家とか、平和主義者とか、ファシズムの協力者とか、色んなことが言われてきた。
それらはどれも間違いではないだろう。
だがどういうものにせよ、そうした整合的なひとつのイメージに収まりきらないところを持っているからこそ、賢治の作品、とくにその童話は長く人々に読まれてきたのだ。


たとえば有名な作品「なめとこ山の熊」だと、最後に、熊撃ちの猟師の小十郎が熊に襲われて「熊ども、ゆるせよ。」と言って死んでいくところで、エコロジカルな、あるいは自己犠牲的な大きな環が閉じられているかのように見える。それは、一見、近代的なシステムに対する批判として美しく完結しているかのようだ。だが本当は、その美しさ自体が「近代」だろう。つまり、反近代とは、近代の別名なのだ。そこに、賢治の思想と文学の危うさがある。


だが「毒もみのすきな署長さん」には、そういう円環の完成を拒むところがある。
その理由は、作者が、たとえばこの署長のような人物を、たんに好きであったからだ。
この署長は、自然や生命を破壊しても自分の欲望を追求することをためらわぬ危険な人間である。その署長にひかれる自分自身を、賢治はここでは否認していない。
ここに、賢治がもし夭折していなければファシズムに抗しえたかもしれない、可能性をみるべきだろう。