『意味という病』

意味という病 (講談社文芸文庫)

意味という病 (講談社文芸文庫)

「きれいはきたない、きたないはきれい」と、『マクベス』の魔女はいう。そして、これは時代の価値観の混乱を意味するよりも、シェークスピアが精神というものをありのままに見た言葉だというべきである。つまり、精神という場所ではどんな奇怪な分裂も倒錯も生じるということをあるがままに認めたところに、彼の比類ない眼がある。この眼は、人間の内部を観察しようとする眼ではない。観察したり分析したりするには、この自然はあまりに手強い。いや手強いからシェークスピアはそれを自然と呼んだのである。 (文庫版 p10)

柄谷行人の初期の代表作である『意味という病』が出版されたのは、今から30年前、1975年のことである。
その冒頭に収められた「マクベス論」は、本書の巻末に付された「第二版へのあとがき」によれば、1972年に起きたいわゆる「連合赤軍事件」にインスパイアされて書かれたものだという。
たとえば、次のような表現に、それはうかがえると思う。

ひとが観念をつかむのではなく、観念がひとをつかむ。ひとが観念をくいつぶすのではなく、観念がひとをくいつぶす。(p54)

彼は何かを演じたつもりだったが、実のところ演じさせられているだけだ。役者というよりも操り人形だ。人間は演技などできやしない。人間に自由な意志などありやしない、という恐ろしい意識がマクベスに訪れる。何やらわめき立ててきたが、結局なるようになっただけじゃないか、という考えが。(p59)


そうした当時の特殊な事情を知らない読者が、この「マクベス論」から今日引き出すことのできる核心的なものはなんだろうか。
それは、はじめに引用した文にあるように、人間の精神についての「内在的な」思考を、筆者がシェークスピアの作品に見出したということだと思う。
それは、他の箇所ではこのように書かれている。

混乱を指摘することと、混乱というものの現実(リアリティ)を信じるということはまったく別の事である。シェークスピアは外側からアイデンティティの喪失というようなことをいう前に、その状態そのもののリアリティを信じていた。つまり、彼は「生きた時代の本質」以外には目もくれなかった。自然をあるがままに映し出すというシェークスピアの覚悟には、時代の混乱を指摘するというような小賢しい態度ではなく、その混乱を信ずるという姿勢があったのである。(p17)


人間の精神に対するこの内在的な態度は、後年の筆者によるマルクス読解につながるものだ。というよりも、このシェークスピアに対する読みの根底に、すでに筆者のマルクス観があったというべきだろう。
それは、観察や分析ではどうにもならない「手強い」対象として、「自然」としての人間の精神を見出す、ということである。
本書に収録された他の主要な論考も、そのようなものとしての人間の精神(自然)に関して書かれたものだといえる。
たとえば、

われわれは世界に対して、客観的な、いわば中性的な距離をもつことができないような「世界」にいるのだ。(中略)たとえば、われわれは資本制社会を客観的に考察することができる。だが、たとえわれわれがどんな認識をもっていようが、われわれはなによりまず資本制社会という「夢」のなかにあり否応なくそこで動かされている。 「夢の世界」p76〜77


これらの論考が示唆しているのは、理念的なものの失効という状況だろう。
理念(観念、意味)が人間を呪縛することの恐ろしさを、連合赤軍事件は明るみに出した。それは、イデオロギーだけの問題ではなく、閉塞した共同体的な社会運動に特有の転移(権力)関係の泥沼を柄谷自身が体験してきただけに、あの惨劇はより切実な出来事として感じられたことだろう。
だがそれは、資本制社会という「夢」の呪縛の恐ろしさを、分析したり批判するのではなく「信じる」という、シェークスピアマルクス的な態度を柄谷が獲得する契機ともなった。
「ポスト連赤」の時代においては、人間の精神に関して「内在的」以外の視点がありえないという思想的立場の台頭を、柄谷行人の登場は示したのだといえよう。
『貴様と闘うのはよしにした』と、マクベスは魔女に言うわけだが、呪縛のリアリティを信じるという態度は正しいとしても、その力に呑み込まれることなく宙吊りのままに留まり続ける方法を、この思想は十分に示しえただろうか。
それは、これ以後の日本での「ポストモダン」とか「保守化」と呼ばれる時代状況に関係することだが、柄谷の評論活動が、連合赤軍事件の衝撃を契機として本格化したということは、やはり非常に重要な意味を持つのだと思う。

一切の「意味」を拒絶した男、どんな形であれ自己を意味づけることをやめた男がここにいる。貴様と闘うのはよしにした、という言葉は屈服を意味しない。在りもしないものと闘うことはそれを存在させることになる。そういう循環がもはや馬鹿げてみえたのだ。 「マクベス論」p61