「互酬的な交換様式」について

たとえば、宗教は呪術の段階から発展したと考えられていますが、呪術とは、超越的・超感性的な何かへの、互酬的な関係です。すなわち、超感性的な何かに贈与する(供犠を与える)ことによって、それに負い目を与えて人の思う通りにすることが、呪術なのです。(柄谷行人『世界共和国へ』p89〜p90)


『世界共和国へ』で展開されている「四つの交換様式」についての議論のなかでも、未開社会に特徴的にみられるような「互酬的な交換様式」が、われわれの現代の日常生活の根底に存在しているという指摘は、ぼくにはとくに関心をそそられることのひとつだ。


たとえば、上に引用した文章をぼくが「よく分かる」と思うのは、競馬をやっていると、「超感性的な何か」とのやり取りや駆け引き(つまり、互酬的な関係)ということを、よく意識するようになるからだ。
まったく当たる可能性がないように思える馬券を買うとき、それを買うことで、たとえ外れても(いや、むしろ外れることによって)、目に見えない利益(健康とか、幸運とか、人間関係の好転とか)が代わりに得られるものだ、という感覚が強くある。また、馬券が当たって儲かる場合でも、「十」儲かるべきところを「十」儲けずに、「七」ぐらいにして「三」は「向こうに」戻しておいたほうが結局はよいのだ、という感覚をなんとなく体で感じていたりする。
これらは結局、「互酬的な交換様式」の感覚を「超感性的な」対象との関係にあてはめて感じている、ということになるのだろう。


「互酬的な交換様式」というものへの意識を、とくに強く感じさせる思想家は、ヨーロッパではルソーだろう。
たとえば、『告白』のなかに出てくる話だが、若いとき、放浪していたルソーは、一文なしで田舎の宿屋に泊まり食事を済ませてから、主人に金のないことを打ち明けて、抵当として上着を置いていくことを申し出る。主人はそれを断り、払えるようになったら払ってくれればいい、と言った。ルソーはこのことに、感動するのだが、

しかし、もっと感動すべきだったし、あとになって思い出したときのほうがもっと感動した。(中略)おそらくもっと重要だが、しかしもっとわざとらしくしてくれた恩義は、この誠実な男の目立たぬ人情ほどは、感謝に値しないと思われた。(小林善彦訳 『告白』上 p175 白水社)


こういうことを書くときのルソーは、比べるものがないほど魅力的な思想家だ。
そう感じられるのは、ぼく自身も、「互酬的な交換様式」、つまり「負い目」や「恩義」、「義理」といったことに近い位置で、人生や世界を感じている度合いが強いからだろう。

たとえば、親が子供の面倒を見るのは、贈与です。その場合、子供は大きくなって親にお返しをするかどうかわからないが、少なくとも、「恩」を感じる、あるいは債務感をもつでしょう。それはここに一種の「交換」があることを意味しているのです。(『世界共和国へ』p22)


追記: ルソーの場合、重要なのは、「恩義」の対象が、同質性としての「家族」や「共同体」の枠を越えてしまっているように見えることだ。「誰にどう恩義を感じるべきか」ということについて、彼は恐ろしいまでに鋭敏で厳格だった。これは彼が、「共和制」の思想家となったことと、深く関係しているのだろう。

世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて (岩波新書)

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