『ヴァンダの部屋』

きのうに続いて、去年見た映画の話。
世界的に注目されているポルトガルの新鋭監督ペドロ・コスタという人が撮った、『ヴァンダの部屋』。

http://www.cinematrix.jp/vanda/

これは、去年見た映画のなかでも、一番すごかったかもしれない。



スラム化しているリスボンの移民街に暮らすヴァンダという名の若い実在の女性と、その周囲の人たちの日常を、ドキュメンタリーとフィクションの境目を取り去ったといわれる手法で淡々と描いた映画。この町は、再開発のためらしいんだけど、家屋が軒並みガンガン解体されていっていて、仕事もない絶望的な状況のなかでヴァンダは薄暗い自分の部屋に引きこもって、ドラッグ漬けの毎日を送っている。
この、家屋が解体されていく画面が、まずすごい。ほんとに、今アスベストが話題になっているような町中の解体現場に居るみたいな音響と、フランシス・ベーコンの絵画を思わせるような非人間化(物象化)された人体の薄汚れた映像が、見るものを圧倒する。
また、薄暗がりに閉ざされたヴァンダの部屋の、精巧に練り上げられた映像は、本当に美しい。3時間にも及ぶ長編であり、これといった事件も筋もない作品なのに、まったく見るものを飽きさせないのは、この映像のたしかな美しさによるものだろう。


ポルトガルという国に大きな移民街があって、そこが今ああいう状況になってるという理由のひとつは、この国がかつて巨大な植民地帝国だったということだろう。かつて植民地であり、ポルトガル語圏である世界中の土地から、多くの移民たちがリスボンにやってきて、あの家並みを作った。そこに経済の困窮と、たぶんEUとかも関係するグローバル化の荒波が押し寄せた。
そう考えると、これは非常に歴史的で社会的な映画だという気もする。実際、作品のそこここに垣間見える、自国とヨーロッパの歴史と文化的な伝統に対する自覚の深さは、疑う余地のないものだ。
しかし、この監督が見つめている歴史と社会の姿は、単純ではない。


ところで注目したいのは、現代の多くの日本映画やアメリカ映画が、人々の「非人間化」という、つまり主体や理念の失効という現実に直面して、「ホーム(家、家庭、家族)への回帰」という退行的なテーマに傾いているのに比べて、この映画が「家の解体」を中心のモチーフとし、むしろ前提としていることである。
家々が解体される轟音が響く中で、日がな一日薬物に耽溺し激しく咳き込んでいるヴァンダが暮らす部屋の映像は、あれはもはや「家」を描いたものではない。
それは家が解体された後に生活する人間の姿を描いたものであり、むしろそうした「非人間化」の先にだけありうる人と人とのつながりの可能性を、この映画はかすかに描き出していたと思う。
このギリギリの理念性は、ヨーロッパの映画だから可能だったものかもしれないが。


映画の終わりのほうに、日蝕を見ようとして片目が潰れてしまう人物が登場する。家が解体され、全ての人々が非人間化されていく現実を見ることは、自分の目を潰してしまいかねない過酷な行為だろう。だが、そこからしか希望は見えてこないことを、この映画は語ろうとしているのではないか。
少なくとも、そう感じさせる不思議な暖かさがこの映画にはある。絶望的な状況をありのままに描いているのに、どこか明るくて力強いのだ。
クレジットが流れるラストのシーンで延々と映し出される、家屋が取り除かれた後に残った石柱の姿が、ぼくには道祖神みたいにも見えた。


追記: 上にリンクさせたこの映画のオフィシャルサイトの中で、監督のペドロ・コスタが、「小津の映画の林檎を剥くシーン」に言及してるんだけど、『晩春』のラストのことを言ってるんだよな。
この監督が、小津から何かを学んだとすれば、それはたしかに集約すればあのシーンになるだろう。実は数日前、このシーンのことを唐突に思い出したとき、コスタが小津を好きだということの意味がはじめて納得できたと感じたのだ。