『マイ・ファーザー』

ナチス強制収容所で人体実験を行っていた父親と、その息子との対話と葛藤のドラマ。
といっても、社会派的な映画とか、政治的な映画というのとは、ちょっと違う。題名どおり父と息子の関係(愛憎)を描いているわけだが、少し変わってるのだ、この映画は。

息子(トーマス・クレッチマン)は、小さい頃から学校の友だちや教師にいじめられて育った。その理由が分からなかったが、あるとき、幼いころに死んだと聞かされていた父親が、ナチスの親衛隊の医師であり、いまは追及を逃れて南米にいる、という事実を聞かされる。
大人になった彼は、その父親に会いに行き、罪を認めて自首するように説得しようとする。だが、父親は決して自分が行ったことを罪や過ちであったとは認めず、逆に息子を自分が信奉するナチスの優生思想への帰依に引きずり込もうとする。
息子は激しく抗うが、父の弁舌とその存在の大きさに圧倒されて、彼を説得することができず、警察に彼の存在を告発する決断もできずに懊悩する。


息子は、なぜこの父親に抗えないのか。
作品中で、息子は言う。「自分と父との間には、越えられない溝があることがわかった。二人で行ける道はこの先にはない。自分の選択肢は二つ。裏切りか敗北かだ」と。
結局彼は、裏切り(告発)ではなく、敗北(屈服)を選んでしまうことになる。
この父親の息子に対する働きかけは、ほとんど性的なものなのだ。
幼いころに別れた父に対する思いやりやたんなる愛情ということではなく、「父」という巨大な存在が持つ魅惑に、息子は篭絡され屈服していく。
つまり、息子の父に対する、濃密なファーザー・コンプレックスがそこにあるようなのだが、それは同時に、ナチズムそのものの原理を暗示しているようにも見える。
不在であった「父親」という物語に深くとらわれていた息子には、父の説くナチスの優生思想のような血統的な物語に抗いとおせる余地は、もともと少なかったとも考えられるのだ。


この父親を演じているのが、じつはチャールトン・ヘストンである。『ボーリング・フォー・コロンバイン』の、あの印象のためばかりではないが、自説を決して曲げない元ナチの老人という役どころが、ぴったりとはまった好演である。
画面に映った印象は、とりあえずデカイ。ヘストンはアルツハイマーであることを公言していて、この作品が最後の出演作になるかもと言われてるそうで、たしかによぼよぼとした歩き方なのだが、息子役のクレッチマンよりふた周りほど大きく見え、しかも体つきがすごい。まさに『ベン・ハー』の彼である。
その姿は、息子を圧倒する、悪の魅惑と意志の力を秘めた巨大な父の存在そのものに見え、彼がキャスティングされたのは『ボーリング・フォー・コロンバイン』のためというより、この肉体のためではないか、と思わせる。


巨大な父と、相対的に弱い息子との葛藤と対立。そして、誘惑し支配する父。これはゲルマン的とも、ヨーロッパ的ともいえるテーマだろう。たとえばカフカコンラッド
実際、密林の中で息子に滔々とナチスイデオロギーを説くヘストンの姿は、欧米の多くの小説や映画に出てくる象徴的な場面のなかの人物を想起させる。
だが、この映画の場合、それがステロタイプなものに留まっているという印象がぬぐえない。そこに、不満が残った。


ひとつ面白いと思ったのは、息子が、「自分を魅了するものは、父の姿ではない。父の声なのだ」というふうに言うところである。
「父の声が自分のなかに住まっている(とりついている)」という表現を、たしか『デリダ、異境から』のなかで、ジャック・デリダもしていた。
父の声というテーマは、息子の父に対する、屈折した性的な感情に関係があるのだろうか。デリダはこの言葉の後に、自分のなかに複数の声を聞けるようにすることが、(全体主義に対抗する)民主主義の可能性に通じる、と言っていたと思うが。