ヴェイユにとっての教育

重力と恩寵―シモーヌ・ヴェイユ『カイエ』抄 (ちくま学芸文庫)

重力と恩寵―シモーヌ・ヴェイユ『カイエ』抄 (ちくま学芸文庫)

重力と恩寵』のなかでも、「注意」という行動の大切さを論じた章は、とくに長いもののひとつだ。
あるひとつの目的を追求する(こだわる)ことではなく、「注意」を平等に、あまねく働かせることが、もっとも大切だとヴェイユは言う。
「平等にただよう注意」という、フロイトの有名な言葉を思い出す。

詩人は、真に実在するものにじっと注意をそそぐことによって、美を生み出す。人の愛するという行為も、同じである。今そこに、飢えかわいているその人がわたしと同じように真に存在するものだと知ること――それだけで十分である。残りのことは自然につづいて起こってくる。
 あるひとりの人間の活動の中に、真、善、美といった真正で純粋な価値が生じてくるのは、いつの場合にも同じ一つの行為を通してである。対象にまったく完全に注意をそそぐといった行為を通じてである。
 教育の目的は、注意力の訓練によってこういった行為ができる準備をととのえてやることにつきるといっていい。 
 このほかにも教育にはいろいろと有益な点があるが、いずれもとり上げるに足らない。(p198)


次のパラグラフでは、「学問研究」がやはり「注意力の訓練」だと言われてるので、ヴェイユの言う「教育」とは「学問研究」と同義(地続き)だと考えていいだろう。
これは、孔子的、というか論語的な学問(教育)観に重なると思う。たぶん、ベンヤミンもこういう考え方だった。


それにしても教育が、注意力の訓練によって「真に存在する」ということを知るための準備をととのえてやる行為だという見解は、言われてみれば、その通りではないか。
つまり、『今そこに、飢えかわいているその人がわたしと同じように真に存在するものだと知る』ためには、教育が、注意力の訓練が必要であると、ヴェイユは言っているのだ。