チャーちゃん

これまで生きてきて自分が一番強い感情表現をしたのはいつだったかと考えてみると、感情表現といっても色々な種類があると思うが、この年になっても自分のなかでずっと同じ自分がわだかまって気持ちがほどかれずにいるような幼児的な自己愛的な感情でなく、他の生き物(生命)にかかわるような種類の感情の発露としては、小学校の低学年のころ、家で飼っていた柴犬が急死したときに号泣した、あの時だったのではないかと思う。
これはたぶんに作られた記憶という面があるのだろうが、自分のこれまでの一生の中でそれが特異点のようなものとして残っていると感じられるのは、以後はそのような外へと感情が開かれることがなくなってしまったという思いが、自分に強くあるからだろう。


去年読んだ本のなかでもっとも優れたもののひとつと思った保坂和志の小説『カンバセイション・ピース』(新潮文庫)は、読みようによっては難解な作品だが、主人公が飼っていた「チャーちゃん」という猫が、数年前に白血病で死んだことの悲しみをどのように克服するかということが、大きな軸になっている。
チャーちゃんが死んだ当初は、次のように感じられていたとされる。

(前略)チャーちゃんが死んだ後三ヶ月か半年ぐらいずうっと、自分がチャーちゃんの目になっていて、いま自分が見ているものをチャーちゃんと一緒に見ているような気持ちがしていたのだ。死ぬというのはおかしなもので、死んだ途端に遍在をはじめる。生きているあいだは猫でも人間でも一つの場所にいて、離れたそこにいる相手といまここにいる自分がつながっているなんて感じられないけれど、死んだ途端にどこにいても死んだチャーちゃんとつながっているのだとリアリティを持って感じるようになった。(p248)


だが、やがて年月が経つと悲しみが希薄化していくように感じられ、むしろそのことに主人公は強い寂しさを感じたことが書かれている。

チャーちゃんのことが頭から離れず、毎日悲しくて悲しくてしょうがなかった頃はチャーちゃんがいつも私の近くにいて、悲しみというものが近さの感覚を喚び起こすという心の作用を知って、その悲しみを媒介とするためにキリスト教徒はキリストが十字架にかけられている姿をつねに持ち歩くようにしているのではないかというようなことも考えたものだったが、いまではもうチャーちゃんのことを思い出しても、私にはチャーちゃんが死んだあの頃ほどの強さで悲しみが襲ってこないことが普通になっていて、私は悲しみから解放されたのではなくて取り残されたように感じるのだ。(p186)


失われたものは、チャーちゃんの生命というよりも、「悲しみ」という実体であるかのように感じられている。
それに対する強い苛立ちがあり、渇きがあるわけだが、それはひとつの転倒だとも考えられる。そのことの危険さも、この小説では書かれているように思う。


また、こういうふうにも書かれている。

苦しみや悲しみや歓びは一人一人の中で解消されたり解消されそびれたりする心理的な対象として片づけられる現象なのではなくて、生き物をこの世界と結びつける根源的な力のはずで、それがあるから生き物同士も孤立していない。(p381)


そういうものとして、身近な存在の死や、その悲しみに向き合うなかで、自分自身のやり方でどのようにそれを乗り越えていくかということが、やや難しい言葉で書き連ねられている本としても、この作品は読める。
そういう体験は、言葉をもつ人間が生きていることのなかでは、不可欠な、大切なことであり行為なのだろうと思う。
たとえば、「喪」という言葉でそれをあらわすのかもしれない。
そういう体験を、ちゃんと経てこなかったという思いが、自分にある。


カンバセイション・ピース (新潮文庫)

カンバセイション・ピース (新潮文庫)