『拒否できない日本』

拒否できない日本 アメリカの日本改造が進んでいる (文春新書)

拒否できない日本 アメリカの日本改造が進んでいる (文春新書)

これから数年後の日本に何が起きているか。それを知りたいと思ったとき、必読の文献がある。アメリカ政府が毎年十月に日本政府に突きつけてくる『年次改革要望書』である。日本の産業の分野ごとに、アメリカ政府の日本政府に対する規制緩和構造改革などの要求事項がびっしりと書き並べられた文書である。(50ページ)

いまの日本はどこかが異常である。自分たちの国をどうするか、自分の頭で自律的に考えようとする意欲を衰えさせる病がどこかで深く潜行している。私が偶然、アメリカ政府の日本政府に対する『年次改革要望書』なるものの存在を知ったとき、それが病巣のひとつだということはすぐには分からなかった。
 だがこの病は、定例的な外交交渉や、日常的なビジネス折衝という一見正常な容態をとりながら、わたしたちの祖国を徐々に衰滅に向かって蝕んでいるということに、私はほどなくして気づかされた。(後略)(あとがきから)


この本はひとくちに言うと、「憂国」の書である。
現在日本で進められている「構造改革」と呼ばれるものが、アメリカ政府からの内政干渉的な露骨な圧力によるものであるということが、アメリカ政府の公式文書である『年次改革要望書』(ただし、日本のマスメディアに公表されたことはない、という)というものの内容にもとづいて告発されている。
 アメリカからのこうした圧力というのは、経済や通商の面では、日本のローカルな経済構造を変えろという、非常に広範囲な要求である。その原点は、クリントン時代の「日米構造協議」なるものにあると、著者は指摘する。

日米構造協議は、アメリカの「イニシアティブ」による日本の構造改革という、現在に至るまで日本に深刻な影響を与え続けているメカニズムの原型という点で、歴史的にきわめて重大な意味をもっている。(68ページ)


しかし、アメリカの日本に対する「改革」の要求が目指しているものは、もっと根本的な変革であろうと、著者は指摘する。
それは、日本の社会構造を従来の「行政優位型」から「司法優位型」へと変革することである、とされる。
つまり、公共事業における「官製談合」に代表されるような、日本の「政官業」が一体となった社会の支配的システムを、司法の力によって「市民」が監視しコントロールできるようなアメリカ型のシステムに変えようとしている。ここで「市民」というのは、結局、日本に進出したアメリカの企業とその代理人のことなのだ、というわけである。


こうした、変革への執拗で周到な要求の底にあるものは、たんにアメリカの企業が儲けやすい社会に日本を変えてしまおういう経済的な打算だけではなく、「われわれ日本人」には理解しがたい、アメリカ人固有の「内的衝動」のようなものではないか、と著者は書き、そこから比較文化論のような話、日本の固有文化を脅かすアングロ・サクソンの独善性について、みたいな内容になっていく。
「キョーソーという民族宗教」と題された第5章では、ケインズ主義を否定した経済学者フリードマンに代表される自由放任主義の経済思想(新古典派経済学)が、その元凶として批判されている。

確かにノーベル経済学賞が創設されてから三十年以上経過したが、アメリカ国内の貧富の差や、先進国と発展途上国とのあいだの南北格差はむしろ拡大している。フリードマン的な自由主義とは、万人の自由というよりは、投資家や企業経営者たちの自由、つまり平たく言えば金持ちがさらなる金儲けに狂奔する自由を説くものにほかならないからである。(204ページ)


このような考察を経た後、「あとがき」には、また次のように書かれている。

必要なのは、疑問の声を封じることではなく、日本とアメリカの関係が、実際のところはどのようなものだったのか、日本人自らきちんと検証することではないだろうか。


概略はこんな感じの本だが、アメリカの日本に対する要求の内容とやりくちが、実に具体的に書かれていて、たしかにショッキングでさえある。
また、ぼくとしては、「小泉改革」なるものの本質を、これまで「経世会つぶし」というような国内的な政争のレベルでしか考えていなかったが、これは基本的にはアメリカの対日政策のあらわれにほかならないのだということを、本書を読んであらためて実感した。


本書への不満は、(「文春新書」だから、まあ仕方ないけど)グローバリゼーションや規制緩和構造改革といったことについての、アメリカの圧力の不当さ、というテーマが、「その被害者である日本」という視点に限定されて考えられている、という点だろう。
日米の二国間関係で見る限り、著者の書いていることは、おおいにうなづけるが、アメリカの他国に対するこうした干渉と圧力というのは、世界中で起きている現実である。そこをみないと、たんに「アングロ・サクソン憎し」の表層的な文化批判の話で終わってしまう。
もちろん、それを考えだすと、たんに「被害者である日本」という見方だけではすまなくなってくるわけだが。


それにしても、今後「改革」がすすむにつれて、こうしたいわゆる右派・ナショナリストの側からの、グローバリゼーションや新自由主義に対する批判というのは、日本でも本格化するのだろうか。
本書でも、「米中の関係強化」ということが示唆されている箇所があった。
一見、著者とは思想的な立場が異なると思われるロナルド・ドーアの見解が何度か紹介されていることも、読んでいて興味深かった。