0と1の話

関西の風呂屋は、阪神戦の中継をやっている間に行くと空いている。
ぼくが夏場になると時々入りに行く銭湯は、元々客が少ないのだが、今日はなんと男湯のなかにぼく一人であった。
何年も前からこんな感じだけど、どうやって経営を維持してるのかが本当に不思議である。


まったく話は変わるが、だいぶ以前、数学者の森毅と絵本作家の安野光雅が、「数」をテーマにして絵と対談がセットになった本を出したことがあって、その書名を忘れてしまったが、面白く読んだ記憶がある。
対談は(絵の内容も)、数をひとつひとつ論じていく、という変わった趣旨であった。
それで、そのそもそもの数の始まりが「0」なのか「1」なのか、ということが、数学の世界では大問題で、これには結論というものが出ないのだ、というふうなことが書いてあったと思う。


これは実に面白い話で、「0」を始まりだと考えるのは、自分というものがこの世に存在する前に、世界という客観的な大きな土台がすでにあると考えることで、多くの宗教も近代科学もマルクス主義も、だいたいこの発想に立っているのではないかと思う。
一方、「1」を始まりと考えるということは、自分というものが生まれて存在することが、この現実(世界)にとって根本的である、という考えだろう。別の言い方をすると、自分という項を抜き取って、「世界」を客観的にのみとらえても意味がない、ということだろう。


「0」というものを考えだした人間の構想力というものは、たしかにすごい。
そんなものを考えださなければ大規模な破壊も生じなかったかもしれないが、しかし、それを考えだしたこと自体は、やはりすごいことだ。
だが、「1」から始まる、誰しも「1」から始めるしかないのだということを、お互いに、そして自分自身に認めてあげるということも、人間がこの世に生きていくためには、やはり不可欠であると思う。


「0」と「1」との間を、人は行ったりきたりして、一生を過ごす、ということじゃないかと思う。どちらかに決めないと、ということもないだろう。
銭湯に長く浸かりすぎて、まだ頭がボーっとしてる。
ただ最近、この話をよく思い出す、ということが書きたかったのだ。