野田正彰『この社会の歪みについて』

このところ体調が悪くて、まとまったことを書くのがしんどいのだが、読みやすいし好い本だと思うので紹介しておく。

この社会の歪みについて―自閉する青年、疲弊する大人

この社会の歪みについて―自閉する青年、疲弊する大人

野田正彰は、高知の出身である。「土佐のいごっそう」という言葉があるが、この本での語りを読んでいても、その言葉がぴったり来るような、頑固で世間の流れに迎合しない、熱情を秘めた人、という印象を受ける。
余談だが、高知に住んでいるぼくの友人の韓国人は、野田氏に頼まれて、氏のおかあさんの家の庭の草刈をしたそうである。真夏のことで、たいへんだったと言っていた。


この本の骨子は二つあって、ひとつは日本社会の現状を批判的に分析し、対案となるモデルを提示するということ。
もうひとつは、「現状を改革する」ことに多くの若者が無関心であるという現実をどう考え、どう対処したらいいか、という話だ。
ひとつ目のほうは、以前に紹介した渋谷望著『魂の労働』などとも重なるところの多い見方であり、ぼくとしても大いにうなづける分析なのだが、ここでは割愛する。
面白いのは、二つ目の骨子のほうであろう。


この本はインタビュー形式になっていて、聞き手は堀切和雅という編集者の人だと書いてある。聞き手の側は野田から、ニートやフリーターといわれる人たちの存在に、社会の現状を変えていくなんらかの可能性があるという発言を引き出そうとするのだが、野田はそれには必ずしも同意しない。
そこのやりとりが、この本のひとつのポイントになっていると思う。


野田がニートやフリーターと呼ばれる現代の若者の生き方に期待をあまりかけないというのは、彼らはたしかに、『一部の、働き盛りの人が、メチャクチャに働かされて消耗していく』というような、今の日本の社会の歪みに感覚的に気づいているかもしれないが、それが社会を変えていく行動につながる可能性は低いだろう、という意味である。
たとえば、こんなふうに述べている。

でも、その気づき方が、じゃそんな社会を変える方向に気が付けばいいじゃないか、と思うけれども、それはない。労働組合を見直そうとか、政府と企業経営者が進めてきた、非正社員を増やし労働者の権利をくずす政策への批判の視点も持たない。あとは、ドロップアウトするしかない、というわけで、そんな社会に参加しない、参加する意欲もない。まあまあに、今を生きている。(44〜45ページ)


精神科医である野田は、こうした若者の傾向を、70年代以後の日本社会のあり方に由来する『時代の病い』であるとかんがえる。
この時期以後に生まれた子どもたちは、摩擦を避け、自分の感じたことや考えたことを相手に伝えないことで、社会のなかで上手に生きていかなければいけないというメッセージを、親たちから受けて育つようになった。

それで、本当の感情ではなくて、相手が何を知っているかとか、それについて好きか嫌いかとか、表層的な情報を交換し合うことで、他者と付き合っていこうとする傾向が強くなっていく。(20ページ)


こうした子どもたちに見られる特徴として、野田は、親の眼差しや微妙な表情の変化から相手の心情を敏感に察知し、言語的なコミュニケーションを経ることなく、雰囲気を読んで親に合わせる、要するに摩擦を回避してしまう、ということを言っている。
ぼくも、今年1月にこのブログを始めた頃、自分自身のこととして、「言語的コミュニケーションから切り離して、相手の表情の微細な変化を読んでしまう」ということを書いたので、この部分は非常によく分かった。


ここから生じるのは、言語的コミュニケーションを作る力が発達しないということ、言語によるコミュニケーション(率直な感情の表明や、議論)のための努力が、むしろ関係に摩擦を生じさせるものとして自己の内部で抑圧を受けてしまう、ということであろう。
野田は、人が「共感的想像力」を持つためには、言語によるコミュニケーションの力を育てることが不可欠であると考えているので、これは人間の感情的・社会的な生にとって、非常に大きな問題であることになる。


こうした、摩擦を回避し、表面だけで他人と交流し同調していこうとする傾向を持つようになることで、子どもたちの心に生じるのは、内面のファンタジーの世界と、他人の前で「いい子の私」として振舞っている外面の世界とが、統合されることなく分離したままで成立してしまう、という状態である。
ここから、現実の世界に対する現状追認的な態度と、自閉した内面の世界をそれぞれが持ち続ける状態とが生じてくる、と野田は語る。


ひとりひとりのなかで内面と外面とを分離しているこの壁を崩すこと、それによって社会と向き合う生き方をするということが必要であると、野田は強調する。
そのためには、「人と話す」ということ、自分の意見を相手にぶつけて、みっともないと思っても議論を積み重ねていくということが大事なのだが、その「議論をする」ということ自体を、現代の若者は非常に「しんどい」と感じている。


この議論を「しんどい」と感じる気持ちは、ぼくのなかにも強い。野田が言っているように、「摩擦を避ける」ということ以前に、意見を他人に対して述べ、議論によって何かを作り上げていくという訓練を、小さいときからしてこなかったことが大きいのだろう。


その実践は各自にとってすごく難しい、まさに「しんどい」としか言いようがないことなのだが、ただ野田が言っていることの根本は、次のようなことなのだ。

やはり私は、身近な人と、意味のある会話をして、交流をちゃんとつくっていくということ、つまり、他者が日々送っている生き方のすばらしさを、発見したり、それに感動したりすることで、私たちはもう少し幸せになりえると思うんです。(111ページ)


若者に必要なのは、外の世界、特にアジアなどの「異文化の人たち」と行き来することで、日常の「装われた自分」を崩すきっかけを作るということ、『そうしながら、今度は身近な人に戻ってきて、深く付き合うべきです。』と、野田は言う。
身近な人との、意味のある深い交流を取り戻すために、異文化の人たちとの出会いと交流が重要であるということ。このフィードバックが肝心だということ。

若い人たちも、身近な人たちとの付き合いの中に喜びを見出さないと、このままで中年に達したら、もともと燃えてないから「燃え尽き」という言葉も使えないんだけど、生きている実感の乏しい、感覚的に痙攣するだけの人間になってしまう。
人間が、意味とか面白さを感じるのは、最終的には、人間からですからね。(126ページ)


これが本書のむすびの言葉だが、「中年に達した」今、この言葉は本当に真実であると、ぼくは思う。