『<野宿者襲撃>論』前編

この本については、前編と後編にわけて書きます。

「野宿者襲撃」論

「野宿者襲撃」論


この本のなかには、野宿者に対する「襲撃」の壮絶な実態や、それをおこなった少年や若者たちの、まったく意識を感じていないかのような発言が数多く紹介されている。
それらを読みながら、ぼくはそういう行為や心理が自分には想像もつかないものであり、なぜそんなことを自分と同じ人間ができるのだろうと思って、読み進めるのが難しいほどの怖さ、不気味さを感じた。
だが、それはぼくの認識の間違いで、これらの若者や少年たちの心理は、そのままぼく自身の心理でもあるということ、だからぼく自身が「襲撃」者になっていてもなんらおかしくないのだということに気づいたのは、前編のⅣ「少年たちが野宿者襲撃をしているとすれば、少女たちは何をしているのか?」の一節を読んだときだった。


たしかにそれ以外の部分でも、経済的な格差を広げて野宿者を大量に生み出し、また排除するような社会全体のあり方(「構造的暴力」)と、その社会が強いる競争原理と抑圧によって追い込まれた少年たちが引き起こす「襲撃」とは、深くつながっていること、むしろ後者は前者のあり方を端的な行動として示したものにすぎないとも言える、という著者の鋭い認識は示されている。
たとえば、こう書かれている。

おそらく少年たちは、幼いときからこうした「われわれの社会」の野宿者への対応を見て、野宿者を「外部の人間」と認識しただけなのだ。その意味で、彼らには野宿者への「共感の完全欠如」が幼児期から完全に刷り込まれている。野宿者はいかなる意味でも人間的な「共感」の対象ではありえないということである。(p45)


こうした分析を読む者は、そこからこうした「共感の完全欠如」、言い換えれば倫理の不在みたいなものが、一種の社会的な要請によって生み出された心のあり方ではないか、という推測さえできるだろう。つまり、このような心を持つ人間の育成を、資本とか国の側が必要としたのではないか。だとすると、若者たちによる「襲撃」は、まさにわれわれの社会によって生み出された現象だということになる。
前編で強調されているのは、「襲撃」という現象へのこうした視点である。


しかし、そういう構造的な認識とは別のところで、「襲撃」をおこなった少年たちの行動や心理を、自分に重なるものとしてとらえることができたのは、前編のⅣにおいて、少年たちによる「襲撃」が、少女たちの「自傷」や「リストカット」と結びつけて語られているのを読んだときだった。
ぼく自身は、リストカットのような自傷行為を具体的におこなったことはないが、精神的にはそういう生をずっと生きてきたように思うし、いまもそういう部分がある。
いや、正直に言うと、自分だけでなく、他人を精神的にあえて傷つけたり、動物を虐待したりということを、小さいときから繰り返して生きてきた。
そうした自傷的(他傷的)な行為や生が必要となり、また可能になるのは、身体や人生や他の人間に対する「現実」感の喪失によってなのだ。
以前から、自分には「共感の回路」がない、というようなことをいくども書いてきたが、それは根本的にはそこに原因があると思う。
つまり、自分や他人の心や身体や人生を否定し傷つけることによってしか「自己確認」できないというところがたしかに自分にはあるのだが、それはぼくがもともと「現実」というものの感覚をある程度喪失しているからだ。
この喪失こそ、「襲撃」をおこなった多くの少年たちの証言から共通に読み取れるものであることを、本書は教えてくれる。
ということは、ぼくもそうした行為、つまり「襲撃」をおこなっていた可能性があるし、ある意味ではすでにそれをおこなってるといえるかもしれないことを、この部分を読んで実感した。「襲撃」は想像もできない行為などではなく、ほんとうにぼくにとっては地続きの事柄なのだが、本書のこの部分を読むまで、そのことにさえ気づかずにいた。
構造的な意味とは別のところで、そういう直接的・具体的な意味で、「襲撃」者はぼく自身なのだ。


本書の後編で明らかになるように、この自覚は別のところにぼくを引っ張っていく。それは、抑圧された者(われわれ)は「襲撃」の代わりに何をなすべきか、という問いかけだ。

同質性とゲーテッド・コミュニティ

前編からもうひとつ印象にのこった部分を紹介しておきたい。
それは、同質的な共同体とコミュニケーションに対する著者の批判である。
このことは、宮台真司がかつて提唱した「まったり革命」に対する非常に優れた批判のなかでよく示されている。
宮台の「まったり革命」は、若者たちに競争から降りて、身近な人同士の親密で穏和なコミュニケーションを深めていくことに価値を見出そうという提言だった。それを宮台は、「成熟社会」(ポスト工業化社会)の到来にともなう「意味(物語)からの離脱」と「強度」の追求という価値観の転換として語ったのである。
だが著者によればそれは、その提言がなされた時期に起きた資本主義社会の現実における競争の激化、『「競争」参加者の少数精鋭化』という事態を「後追い承認」するものでしかなかった。
競争に参加する資格を奪われた多くの若者たちにとって、「まったり」することは『半ば「強いられた」選択』であり、まったりしていても、『ゴール(=「勝ち組」と「負け組」の選別)は間違いなく、いずれやってくる』。「まったり革命」は『世界資本主義の矛盾と限界からとりあえず目をそらす効果』をもつ言説として機能したのである。
そして、こう述べられる。

さらに言えば、宮台真司の処方箋は、「生と死の実感」と「コミュニケーション」の暴力的であり破壊的でありうる可能性を、ポスト工業化・階層化社会に整合的で親和的なものに矯め直そうとしているようにも見えるのである。事実、コミュニケーションの育成は、多様な立場と価値観の交差を生み出す可能性を持つだろう。だが、若者の友人・親友の数が増えていく一方という現状は「革命」でありえるのだろうか。むしろ、それは同質性のうえで成立する閉塞化でもあるのではないだろうか。(p77)

一言で言えば、コミュニケーションは自然成長的に発展すればするほどその閉塞性と排他性を強めるようにさえ思われる。(p78)

共同体内部の自然成長的な「承認供給」ではなく、むしろそれに対して「不整合で暴力的で異質な」コミュニケーションの方向を追求する必要があるはずである。(p79)


こうした、同質的で身近な人だけのコミュニケーションの空間(「mixi的な空間」とでも呼べそうだ)に対する批判は、やはり本書のなかでいくどか触れられている「経済的アパルトヘイト」としての「ゲーテッド・コミュニティ」の問題と重ねられていると思う。
それは、経済的な格差によって隔てられた人々が、現実にも「壁」を築いて暮らすことにより、異なる階層の人たちに対する「共感の完全欠如」をますます決定的にしていく、という現実の問題だ。

ゲーテッド・コミュニティの中は、均質化された住民たちの住む「コミュニティ」であり、そこでは「セキュリティとプライバシー」が確保された聖域だという。税さえコミュニティで自己完結させ、地域への支払い拒否をすることさえある(「自分たちの税金は自分たちで使い方を決める」=「貧乏人たちのために税金を払う必要はない」)このコミュニティは「島宇宙」のひとつの手本である。(p86)

社会的な相互関係や他者との公共性は一切排除され、「セキュリティ」の名目で、経済階層の異なるものが物理的に分断=共生(アパルトヘイト)されている。
 これは、所得が二極分化し、野宿者が居住する(生活保護水準以下の)「シェルター」建設が各地で現在進行しつつある日本においても人ごととは言えない。(p33)


社会がこうした方向に向かう根底には、「隣人」から目をそらせることで過酷な社会の「現実」に直面することを回避し、同質的な共同体に閉じこもろうとする人々の心のあり方があることを、著者は批判しているのだと思う。
競争の激化によって多くの野宿者を生み出し、またそれを排除し、「襲撃」という事態を引き起こす、こうした(人類史的にみれば退行的にも思える)社会のあり方に風穴をあけるものとしての『「不整合で暴力的で異質な」コミュニケーションの方向』の追求が、後編での大きなテーマとなる。