浅薄なもの

巨人の監督はナベツネがやればいいと思う。


きのうのエントリーでは、日本と韓国の「改革」とナショナリズムみたいなことを書いたわけだが、滅茶苦茶荒い論理展開だったなと、自分でも思う。
だいたい現状への不満(つまり、改革の意志)と結びついてないナショナリズムなんてあるのか、という気もする。
ただ言いたかった要点は、日本で小泉を支えている大衆のメンタリティと、韓国で盧武鉉を大統領にした大衆のメンタリティとは、重なる部分があるはずだ、ということだった。それを名づける言葉としては、「改革」と「ナショナリズム」の二つしかないのが現状だ。
この二つが結びつくというのは、やっぱりグローバル化の時代ということではあるんだろう。アメリカの要求(構造改革・通商・軍事)というグローバル化、中国の拡大(経済・軍事)というグローバル化。それに対する反発と適応。


ぼくは小泉も安倍も大嫌いだが、小泉の「改革」と言われるものが、なぜこれだけ支持されるのかは、もっと真剣に考えられるべきだと思う。
よく、選挙の投票率は、内閣の支持率ほど高くないから、実際には小泉政権は信任されてるわけではない、というふうなことが言われるが、間違いだ。
自公政権下で投票に行かない「無党派層」の人たちというのは、投票率が下がれば与党が有利になることはよく知っているはずだ。それが分かっていて投票に行かないのは、この人たちが小泉続投を支持しているからに他ならない。この人たちは無関心なのではなくて、消極的でも明確に小泉路線を支持している。
ぼくはそう思う。だから、小泉政権が「独裁」へと進むのは、大衆の意志にもとづいているとしか言いようがない。


もうひとつ、「ナショナリズム」については、きのうも書いたように、日本は親米、韓国は反米と、一見大きな違いがある。また、当然ながらというか、この両国のナショナリズムと呼ばれるものは、鋭く対立している。
しかし、同時にそこには同時代性みたいなものがある。
この部分は、「浅薄なナショナリズム」というふうにいわれることが多い。中国や韓国の反日デモでも、「あれはインターネットから火のついた、底の浅いナショナリズムだ」みたいな批判を、朝日も産経もしていたと思う。
だが、この「浅薄」な部分こそ、いまは重要なのだと思う。
この部分は、「改革」を求める両国の人々の情緒や欲望と重なって、日本では小泉を、韓国では盧武鉉(こちらは相変わらず苦しい政権運営をしてるようだが)を現在の地位に押し上げた。


この部分をなめると、小泉人気も分からないし、中国や韓国のことも分からなくなるのではないか、そんな気がする。
だいたい、浅薄でないファシズムや革命なんてあるのか。
この先何かが生まれるのは、この「浅薄さ」と無縁なところからではありえないと思う。