「明け方の猫」補足・夢への抵抗

きのう書いた感想への補足。
いつもアップしてから、大事なことを書き忘れていたことに気がつく。
主人公が見ている「夢」とは、抽象的な思考や記憶をとおしてしか世界と関われない人間の生きている現実のあり方をあらわしているように思える。

というか、人間というのは特殊な動物で、ほとんどのことを具体性でなく抽象性のレベルでとらえて理解しているのではないかと彼は思った。(83ページ)


この特殊な現実を与えられたおかげで、人間は「考えつづける」という運命を背負わされてしまったという意識が、この夢見ている「彼」にはあるらしい。

ただ生まれて生きて死ぬだけならともかく、人間のようなパースペクティブを持ってしまったら、「何のために」ということを考えざるをえないじゃないか。人間以外の生物がすべて本当にただ生まれて生きて死ぬだけだとしても、人間は現にそういうことを考えるように頭が発達してしまったわけで、その発達がいっさいこの世界や宇宙の原理と無縁だとしたらそれはとても奇妙な現象だと思った。(中略)夢のルールが仕向けるままに自分が考えつづけるしかないことを彼は自覚した。(85ページ)


夢においては、夢見ている者は夢自身によってなんらかの行動やそのルールを強いられている(つまり、「運命」)という意識が、この主人公には強いが、「考えること」は、その重要な一部である。そのことは、人間の生が置かれている特殊な条件と重なっているように思える。
この特殊な条件とは、つまり世界との関わりの具体性を欠いているということだが、それは生きているということに対する、そしてこの世界そのものに対する決定的な認識の欠落を意味しているらしい。
それがたぶん、「前世」という言葉につながっている。

世界はそこに生きる生き物たちに端から見るとまったく意味のない行為を際限もなく繰り返すことを強いるのだ。(54ページ)


その現実を人間が知ることができないのは、人間だけが「考える」というルールを負わされているからだ。生きていることという、この夢の中で。

前世でミイとこの家の庭で再会したことを忘れていた自分は、前世でこの先もう一度ミイと会うことができたのかどうかをまったく思い出せずに、考えだけをひたすら空回りさせている。
せっかく動きの集積として思い出せばいいんだということがわかったのに、動きはすでに完全に奪われている。動きが完全に奪われているこの状態は、時間のなかに閉じ込められていることの隠喩なのかもしれないと彼は思ったけれど、彼にそう思わせることこそがじつは夢の巧妙な戦略で、動きが完全に奪われた状態を虚偽と見せるための方便にすぎないのかもしれなかった。(114ページ)


人間は、個々の生を越えた世界の広大な連続性から切り離され、「考えつづける」というルールを課された存在なのだという自覚を、ここに読み取れるが、それだけではない。
肝心なことは、ここで主人公というよりも、むしろ小説の語り手が、「考えつづける」という、夢によって負わされたルールの実践の徹底をとおして、このルール(運命)を背負わせたものに対峙しようとしていることだ。
具体性は、人間にとって決して直接に見出せるものではなく、背負わされた抽象性(思考)の影(「巧妙な戦略」)のようなものとしてしかとらえられないはずだという意識が、この語り手にはあるのではないだろうか。


思考という「夢の運命」をあえて決然と引き受けることで遂行される、彼の「夢」に対する抵抗は、だからきわめて戦略的なものとなるだろう。

明け方の猫 (中公文庫)

明け方の猫 (中公文庫)