「夏の終わりの林の中」

7月2日の記事のコメント欄、書き込みへのレスを書くのに三週間ほどもかかってしまった。重厚な書き込みをしてもらってただけに、玉川さんには申し訳ない。


新潮文庫『この人の閾(いき)』(保坂和志著)には、表題作のほか、短編が三つ収められている。四つの作品のなかでは、表題作が際立ってよく書けていると思う。
ただ、「夏の終わりの林の中」という小説も、ちょっと面白かった。
東京都内の
「自然教育園」
という所の林の中が舞台になっていて、三十代後半の男女が二人でそこを歩き回りながら、いろいろ思索的な会話をする、という内容である。
東京の真ん中にこんな場所があるとは、まったく知らなかった。隣に庭園美術館というのがあると書いてあり、こちらにはたしか行ったことがあるのだが。


この小説は、村上春樹の『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』に、似た雰囲気がある。どこが似ているかというと、小説の舞台として描かれている人工的な感じの自然が、作者の作品世界そのものの比喩になってるのではないか、と思わせるからだ。
しかし、こういうふうにも書いてある。

「だからね、ここは、すっごく手を入れられてるところかもしれない。
――って、思わない?」
 「人の手がまったく入っていないように手を入れている、だろ?」
 「でもきっと本当はそうじゃないのよね」(166〜167ページ)

本当はそうじゃないのか。


また、この空間が、いまの日本の社会全体のたとえになっているようにも思えるし、あるいはもっと普遍的な現代の人間の社会のたとえになっているのか、とも思う。
しかし、それ以上考えようという気にはならない。図式的に考えさせないようにするのは、この作家の優れたところかもしれないが、「この人の閾」などと比べると、この作品は迫ってくるものがやや弱い。考えないでいいということが、読者にとって安心感になって終わっているように思う。
寓話のようだがそうではないかもしれない、という以上の強さがない。
むしろ、この作品で断片的に示された色々なテーマが、その後の小説で話として練り上げられ完成されていく、ということだろう。
そんなわけで、印象に残った断片をいくつか。

『カラスとか人間とか、雑食でものすごく適応力の強いのも自然から生まれた。いや、自然状態の人間とは片隅に追われる一方の先住民族を指すのかもしれない。』(170ページ)



『「動物も自分で栄養を作れたら、こんな世界にはならなかったってことだな」
 (中略)
「――そんなことより、動物なんかいないで植物だけでよかったんじゃないかって、あたしは思う」』(170〜171ページ)



『ぼくは本当のところ人の手が入っていない自然が嫌いなんだと、ひろ子に言った。』(183ページ)

この人の閾 (新潮文庫)

この人の閾 (新潮文庫)