富の再分配再考

このところコメント欄に、富の再分配ということについて心ならずも書き続けているが、制度のことについていうと実はぼくも、福祉国家全盛の時代にあったような国による社会保障の体制が再び強化されることには疑問がある。
税とか社会保険といった国の機構による再分配のシステムは、あくまで補完的なものであるべきと思う。その意味では、福祉国家の崩壊は、必ずしも悪い徴候ではない。


本来は、各人のライフスタイルにみあったある程度の富の不均衡を前提として、豊かな人と貧しい人、稼ぐ人と稼がない人とが互いの生き方を認め合ったうえで、助け合って生きる社会が理想だろう。その精神的な土台の上に立って、国や共同体による制度は、あくまでそれを補完し支えるものであるべきだ。「福祉国家」のように、制度が先行して税などによって個々人の生に縛りをかけるべきではない。
もちろん、こうしたいわば私的なセフティーネットによって成り立つ社会というのは、理想に過ぎず、実際には各人の欲望の暴走のほうが勝ってしまって、餓死者が出るという事態も生じるかもしれない。平安時代の日本や、かつてのインドのように。だが極論をいえば、そういう社会が、「福祉国家」のように国の秩序に従うことで生存が保障される社会よりも、非人間的であるとはいえない。
飢餓による死といっても、今日の世界で多く生じているような不均衡な世界経済の構造によって人々に強いられる死は、もちろんなくなるべきものだが、最大の問題は、人の生も死も、国家や資本という大きなものの都合によって支配されているということであり、餓死が必ず人間らしい社会の不在の徴候であるとはいえないのだ。
「生政治」という言葉があるそうだが、人間の生と死は、どのような形であっても管理されるべきではない。そう思う。
その意味で、「働かない奴は死んでも仕方がない」という自暴自棄のような言い方には、ぼくは絶対に同意しないけれど、いまの国や社会の大勢(ネオリベ)に迎合する安易な物言いという面を取り外してみれば、人間の自由な生を認めることにつながる要素が、この言葉のなかに全くないわけではない。つまり死も、国の管理によるのではなく、最終的には本人の選択に委ねられるべきだという意味では。


一番肝心なことは、互いが互いの生き方、いや、生きていることそのものを認めて、最低限生きるために助け合うような心をそれぞれに持つということだ。富の均等化という意味での「平等」が目的ではない。
「こいつはよそ者だから」とか、「こいつは怠け者」だからとか「考え方が合わないから」とか、なんらかの尺度によって、他人が生きることそのものを根底から認めない態度は、悪しきイデオロギーであり、否定性以外のものではない。それは根本的には、そう考える本人の生に対する自己否定でもある。
福祉国家」の考え方には、国民保険や、その拠出制というあり方に見られるように、助け合うべき他人の生の条件を限定する(国民かどうか、あるいは積み立てをしてきたかどうか)という性格があった。これは根本的な生のあり方にとっては否定性であり、社会保障の本来の姿に反するものだと思う。
繰り返すが本当に大事なのは、各人の心、他人の生命と死に対する感じ方である。制度はそれを補完するものであればよい。


今日の問題は、資本主義の拡大の果てに生じた極端な富の不均衡により、人々の心から、生命と死に対するこの根本的な感じ方が失われつつあることだ。まさにこのために、富の極端な不均衡は是正されるべきなのであって、自由競争や各人の生きかたの違いによって生じる経済的な差異を消滅させろと言っているわけではない。
一人一人の心の荒廃を防ぐために、社会のあり方を変えていく必要があるのだ。社会制度の変革自体が目的ではない。どんなに制度が変わっても、人の心が荒廃したままでは、つまり互いの命をそれぞれが認め合えないのなら、結局は何も変わらない。