『たった一つの、私のものではない言葉』

要約しよう。私が話している単一言語使用者、この彼は、自分から奪われた一つの言語を話している。それは彼のものではないのだ、フランス語は。したがってすべての言語を奪われているがゆえに、そして彼にはもはや他の頼みの綱が――アラビア語ベルベル語ヘブライ語も、祖先たちが話していたであろう諸言語のうちのいかなるものも――ないがゆえに、すなわち、この単一言語使用者はいわば失語症であるがゆえに(おそらく失語症であるからこそ彼はものを書くのだ)、彼は絶対的な翻訳の中に、準拠の極なき、起源の言語なき、出発の言語なき翻訳のなかに投げ出されているのである。(p116)


思想家ジャック・デリダは、フランス植民地時代のアルジェリアの首都アルジェ近郊に、ユダヤ系住民の子供として生まれ育った。当時のフランスの植民地政策により、アルジェリアユダヤ人たちは、周囲に暮らすアラブ人やベルベル人の言語や文化から隔離され、同時にユダヤの伝統と記憶を忘却するよう制度的に強いられて生きていた。そしてデリダ自身がそうであったように、フランス語を唯一の言語として育てられ学校教育を受けたのである。
しかもこのフランス語自体が、特殊な政治的・歴史的な経緯も関係して、デリダにとっては、自然な同一化の対象とはなりえないきわめて不安定なものであるほかなかったという。つまり、自分にとっての唯一の言語が、決して自分のものではないという特殊な言語状況を、デリダは生きることになった。
本書では、このデリダ自身が歴史的な理由によって置かれた特殊な位置からの証言を通して、言語というものの普遍的な構造が照射されると共に、そのようにして、いわば個人的・歴史的な証言が、普遍的な構造に対する考察へと結びつくことによって、その歴史のなかでの特異性と暴力性の痕跡が消し去られてしまう危険性についても、繰り返し省察されている。
もちろん、この思想家の個人史の回想と告白として読んでも、非常に興味深いものである。
以下は、その抜粋。


デリダは、自己の言語に関する体験を特殊で例外的なものとはとらえず、「普遍的な範例」であると考えて、次のように言う。

いわゆる母語とは、決して純粋に自然なものではないし、固有のものでも住みやすいものでもない(p110)

他の事物について語り、他者へ語りかけることをみずからに可能にしてくれるような異質論理的な開かれを呼び寄せる力が、一つの言語にはつねにあるということだ。(p132)


だが、人間と言語との関係は、安定したものではなく、むしろある場合には破壊的ですらある。

というのも、これが私の仮説なのだが、絶対的な固有化ないし再固有化は決して存在しないからである。なぜなら、言語の固有な自然性などというものは存在せず、それはただ、固有化しようとする怒りや固有化を持たぬ嫉妬を惹き起こすだけなのだから。言語が語っているのはこの嫉妬なのであり、言語とは解き放たれた嫉妬にすぎないのである。(p44〜45)

伝統からの切断、根こぎ状態、諸々の物語の近寄りがたさ、記憶喪失、解読不可能性等々――こうしたすべてが、系譜学的欲動を、特有言語の欲望を、アナムネーシスへの衝迫に満ちた運動を、つまりは禁じられたものへの破壊的な愛を荒れ狂わせるのである。(p114)


この歴史的な剥奪の暴力から生じた「破壊的な愛」が、自身の「脱構築エクリチュール」の底にあることをデリダは否認しない。
そのデリダにとって、「フランス語で書くこと」とはどのようなものだったか、そしてそこから導き出される「書く」という行為についてのデリダのとらえ方。

もっと正確を期そう。(フランス語を)懐柔すること、この場合、おそらくそれは一つの夢だった。それは一つの夢にとどまる。どんな夢か?それはなにも、言語に苦痛を与えることではないし(私がこれほど敬意を払い、かつ愛しているものはないのだ)、ここで私がそれによって自分の主題を形づくっているこれらの報復の運動のうちの一つのなかで言語を害い、傷つけることでもなく(ルサンチマンの場を、すなわちいったい誰が誰に復讐しているのかを、決して限定することができないままに――そして何よりも言語それ自体が、そもそもの起源から、この復讐心に満ちた嫉妬によって胚胎されているのでないとしたら?)(中略)そうではなくそれは、そのときみずからを夢見始めたに違いない夢であり、それはおそらく何かがそれに、すなわちこの言語に起こるようにすることだったのである。(p96)

この身ぶりは、それ自体において複数的であり、分割され、重層決定されている。それはつねに、すべての与えられた言語のそのように露出された身体にむけられた、愛のあるいは攻撃の運動として解釈されるがままになり得る。この身ぶりは、実際にその両方を行なう。すなわち、それは、与えられた言語――ここではフランス語におけるフランス語――のもとに服従し、身を捧げ、みずからを縛りつけるのである――その言語が持っておらずその身ぶり自体も持っていないものを、その言語に与えるために。だが、この救済――というのも、それは他者の死すべき運命に差し向けられた救済であり、無限の救いへの欲望であるからだ――は、鉤爪の、そして接木の一撃でもある。それは、爪で、それも時として借りものの爪で愛撫するのである。(p125〜126)


最後に、文化と植民地の残酷性に関して。

あらゆる文化はもともと植民地的なものである。そのことを思い起こすために単に語源を当てにすることはするまい。あらゆる文化は、言語に関する何らかの「政治」の一方的な強制によって確立される。(p74)

植民地の残酷性を、ある種の人々――私もその一人だが――は、こう言ってよければ、二面性を持つ経験に変えてきた。だが、この経験はあいかわらず、またしてもあらゆる文化の植民地的構造を範例的な仕方で暴き出す。(p75)