アートと表現と物語

先日も書いた『群像』5月号では、「Art/物語」と題された特集が組まれていた。
このなかで面白いところがあったので、少し紹介と感想を。


森美術館の荒木夏実さんという、この人は今行なわれている「ストーリーテラーズ――アートが紡ぐ物語」という展覧会のキュレーターなのだそうだが、そのインタビューが収録されている。
今のアートシーンでは、世界的に作家個人の物語をアートとして語る、みたいな作品が世界的に増えているのではないかと感じたことが、今回の展覧会を企画した動機だそうだ。世界中の作家の、そういう作品が集められている展覧会らしい。
たしかにぼくも、「アート」と聞くと、(特に日本の作品に関しては)個人の私的な表現、見たいなイメージがある。そこが、「美術」というのとは、ちょっと違う感じだ。でもそれが、物語性を強く帯びるようになってるというのは、どう考えたらいいんだろう。
で、この方が、今回の展覧会に出品された作家たちの作品に関して語っている、アートと物語の話が、たいへん考えさせられる。

やっぱり何かを語っている。それが自分の人生だったり、その民族の歴史だったり、自分の周りに見えている世界だったり、自分の内的、心的風景だったり。それをアートという媒体を通じて表現するということです。アートに関心のある人でもない人でも、人間一般にすごく訴えかけてくることだと思うんですね。何となくアカデミックな世界とか、アートの世界では、そういうことを排していく傾向がずっとあったと思うんです。物語というのは非常に陳腐だ、そういうものは非常に個人的な真情の吐露だったり、あるいは政治的なメッセージだったり、そういうものは青臭い。そんなものよりも、もっとおもしろいものをよこせみたいな、何となくそういう風潮があったような気がするんです。でも、本当は人は他人の物語を聞きたいし、どんなことがあったのか、その人が何を考えているのかということを見たいし、それを見たときに、やっぱり自分の物語がわっと起こってくるんですよね。あるいは、自分のストーリーが喚起されて、ぴたっと合致するというか。
物語はアーティストが語っているかというと、必ずしもそうではなくて、オーディエンスが読み取るんですよね。オーディエンスの方が、自分が、今、どんなことを問題意識として持っているかとか、今、個人的にどんなつらいことがあるかとか、奥底にある痛みとか、つらかったけれども見ないふりをしてきたとか、今はとりあえず置いておこうとか、そういう、見ないでなんとなく封印してきた痛みとか悩みとか葛藤とか自分の中の矛盾とか、そういうものが、やっぱりアーティストの表現とぴたっときて、それで自分の物語が生まれてくるというか、そういう作用があるような気がしてます。


前半で語られていることというのは、これまでの社会では、「大きな物語」によって、諸個人の「小さな物語」が、ある意味で抑圧されていた、ということではないかと思う。歴史や階級や政治の文脈に結びつくような仕方でしか個人の生を語る言葉が、これまではなかった。それだけではすくい取れないものはやはりいっぱいあって、みんなそれを表現したかったのだが、それを表現するべきものとして自覚するための言葉もなかったし、方法も見つからなかった。
それが今の時代には、政治などの「大きな物語」が力を失うにしたがって、そういうこれまですくい取れなかった個々人の内部の微細な痛みとか悩みとかをはっきりストレートに見つめられるようになってきた。だから、それを表現しようとする作品が増えていて、それに触発されて多くの人たちの、それぞれの「小さな物語」への欲望も高まっている。そういう変化が語られているのだと思う。


すごくよく分かるんだけど、、これ難しいところだなあ。今まで語られにくかった、内面の個人的な痛みや悩み、それは非政治的とか非歴史的といっていいものだと思うけど、それが見出されるようになったのはいいことだが、それが今度は「小さな物語」への欲望につながるということになると、これは保守的だったり反動的な現象ということにもなるんじゃないか。
一人一人がそういうふうに「自分の物語」を語りだすことによって、逆に見えにくくなる現実の水準もたしかにあると思うわけで、「ブログ」というものについても、その政治システムの側、管理する側から見た機能というのは、そういうところにあるんだろうと思う。


荒木さんは、またこういうことも述べておられる。

物を食べたり排泄したり、そういうものから結局逃れられない。いろいろな目標を掲げてみたり、何か創作してみたりするけれども、自分の与えられた肉体的な一生を全うするのが人間の運命ですよね。だから、そういう意味では、ナラティブとかストーリーテリング、物語というのは、すごく人間の基本的な活動なのかなと思うんですね。肉体としての限界をもった個体の精神の冒険というか。いつの時代でも、どこの民族でも。みんなそれを聞きたいと思っているし、話したいと思っているし、そういうことに、いま一度目を向けてもいいんじゃないかなと。


上に引用した文章の、特に後半部分と重なる部分と重なる話だと思うのだが、やはり「物語」の欲望の肯定のようになっている点が引っかかる。表現の欲望ではなく、物語の欲望というところで、消費社会とか管理社会とか、みんなのなかにある制度的なものの自己肯定で終わってしまうんではないか、という危惧が残る。
それと、この文章を読んでて思い出すのは、『魂の労働』に書いてあった「宿命論」という言葉。そういういわば生のミニマムなところに関心が移ったということは、いいとも悪いともいえない、ニュートラルな変化なんだろうけど、それが個体の「小さな物語」の肯定ということに帰結してしまうと、『いつの時代でも、どこの民族でも』とあるように、歴史的・社会的な次元の忘却という、管理する側にとって都合のいい政治的含意をはらんでしまうのではないか?


実はこの特集で一番印象深かったのは、青山真治が、「あなたにとって物語とは」というアンケートへの答えとして寄せた短いエッセイだった。
短いけどすごく深い文章で、ぼくには十分理解できないところもあるのだが、そのなかに次のように書いてあった。

しかしながら無論、僕が作る物語は僕だけが作っているわけじゃなく、また論理や筋道の整然とたった形で作るわけでもありません。映画の場合ならスタッフやキャストの、小説の場合は生きてきた時間すべてのなかで出会った方々の影響下で、いや、それだけではなく、過去に見た映画、テレビ、絵画、写真、過去に読んだ小説、エッセイ、詩、新聞記事、雑誌記事、過去に聞いた音楽、ラジオ、さらにネットに書き込まれる言葉や写真や動画などなど、それらすべての影響下で、しかもそれらが行き当たりばったりに組み合わさって作られているわけです。(中略)中原昌也が「文筆」を「分泌」と書き直したとおり、です。入れたものをべつの形で出す。それだけです。


実は、これと同様のことは荒木さんもインタビューの中で述べておられた。だから、両者の「表現」に関する認識が大きく違うということはないのだろう。
それは、近代的な作家主義、作品主義や、オリジナリティに対する信仰は、もはや崩壊しているということだ。それは、事実としてそうなのだろう。
それをポストモダンというのだろうが、ぼくはこの青山真治の言葉に、その崩壊(解体)を、「小さな物語」の再建へと回収させない、徹底化の意志のようなものを感じた。青山真治は、物語を作ってる人だと思うのだが、その根底にこの解体を徹底する意志みたいなものがある。


荒木さんの言っていることと青山真治の言葉というのは、重なっているようでもあるし、微妙に違っているみたいでもある。
でも、表現をめぐって、「排泄」とか「分泌」という言葉が出てきているところが、なんとなく面白い。