『闇を喰む』 その1

高史明の自伝的小説『闇を喰む』(角川文庫)。この本も、毎日少しずつ読んでいて、なかなか進まないが、やっとⅠを読み終わってⅡに入り、「血のメーデー事件」のところまで来た。
この部分に関して思うところを少し。
ぼくはずっと勘違いしていて、「血のメーデー事件」が起きたのは、戦争が終わって間もない40年代のことだと思っていたが、1952年のメーデーだということが分かった。この三日前にサンフランシスコ講和条約が発効しており、朝鮮戦争が行なわれている真っ最中の出来事であったわけだ。そして、講和条約の発効と同時にGHQによる日本共産党への禁圧措置が無効になったとある。これは、非合法でなくなったということだろう。党員であり地下組織の活動家であった主人公の朝鮮人青年は、「人民広場」(皇居前広場)に群衆を誘導する役割を党から与えられ、警官隊との衝突の現場に遭遇することになる。まさに、歴史的な場面である。
この青年は、こうした経験を通じて党(共産党)の方針に重大な疑問を感じるようになっていくわけだが、それ以前のところでは、共産党の人たちとの出会いについて、次のように書かれている。

(前略)私はただただ、Hさんをはじめ、事務所にいた党員たちからもろ手を挙げて歓迎され、その人々の温情にただただ深い喜びを覚えるのみだったのである。そこには私をD会館事件に誘ったPもいた。日本人だけではない。朝鮮人もいた。みんな普通の人たちである。普通の人というと、いかにも妙な言い方だが、それが私には大切な実感であった。幼かったときを別にすると、かつて私には、いわゆる普通の人々との交わりがなかった。とりわけ小悪党に転落してからは、私の人間関係は極めて歪んだものになっていたのである。もし、日本人であって私に近づいてくる者がいると、まずは私と同じ暗い影を背負っている人ばかりだったと言っていい。朝鮮人の場合でも同様である。いわゆる真っ当な人たちは、私を敬遠した。そして、私の方でもこの身を覆う人間の臭気をいよいよ強く発散させることになっていたのである。ところが、そのとき共産党の事務所にいた人々は、暗い影を纏う私を、それこそ抱きかかえるように迎えてくれたのであった。(20〜21ページ)


結局、共産党という組織が、どういう意図でこの孤独な朝鮮人の青年を暖かく迎えたのかは分からない。だがそれは別にして、こうした箇所を読んでいて思うのは、当時の共産党員やその家族の人たちの間には、特別な暖かいコミュニティーの雰囲気があったであろうということだ。これは、現在でもそういうものは残っていると思うが、当時はもっと強かっただろう。それが、この孤独な青年の心を打ったということは事実だろう。
なぜこうした雰囲気がこの人たちの社会にはあるか、またこの時代には特に強かったかというと、周囲の社会全体と厳しく対立する何かを守りながらお互いを支えあう、少数者のコミュニティーが、そこにあったからだ。とりわけ戦争の時代を経て、つかの間の復権の後に再び非合法化されていたこの時代には、その絆の意味は一層重かっただろう。ちょうど「隠れキリシタン」の村のような雰囲気であろうと思う。
こういうコミュニティーの力というのは、社会全体に対しては自分を堅く閉ざしているが、その社会全体からはじき出された者に対しては、非常に暖かくこれを包み込むもののようだ。つまり、本当の意味で開かれた社会性を持っていると考えられる。その独特の雰囲気が、主人公の青年の孤独を包み込んだのだ。


かつて山本七平は、日本の社会には一定の割合以上に増えることはないが、容易に減ることもない強固な少数者の集団が三つある。それは、カトリック信者と共産党員と在日朝鮮人だ、と言ったことがある(この箇所、削除したので、文末に説明の記事を載せました。)。
この小説の主人公に、その絶対的ともいえる孤独から脱するひとつのきっかけを与えたのは、そのひとつである共産党員のコミュニティーだった。それは、政治理念や組織の問題とは、また別の問題ではないかと思う。また政治的・宗教的・民族的なアイデンティティーということとも重ならない問題であろう。あえていうと、そういうもの以前にある人間と人間との係わり合いの条件をなす何かの問題であると思う。
この小説の、この場面に描かれた一つの出会いは、そのことを示唆していると思う。


ぼくは、人間にとってコミュニティーと呼ばれるものが本当に重要な意味を持つのは、ここに描かれているような、社会のなかの孤立した少数者のコミュニティーだけではないだろうか、と思う。こうしたコミュニティーは、それ自体の孤立した連帯の力によって、社会から逃れ出てきた孤独な人間を救う。だがこうしたコミュニティーが、孤立を脱し、多数者の集団に転じたとき、その開かれた性格は失われてしまう。
ともあれ、このようなコミュニティーがどれだけ存在しているかということが、その社会全体の柔軟性や開放性を決めるということは、いえるだろう。


この感想、「その2」がいつになるかは未定です。

闇を喰む〈1〉海の墓 (角川文庫)

闇を喰む〈1〉海の墓 (角川文庫)

闇を喰む〈2〉焦土 (角川文庫)

闇を喰む〈2〉焦土 (角川文庫)

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上の文中で山本七平について、『いうまでも無く、山本自身はカトリックだった』
と書きましたが、読者の方から、山本七平は「カトリック」ではなく、無教会派だったのではないか、とのご指摘をいただきました。
インターネットで調べたところ、はっきりした記述を見つけられなかったのですが、下記のサイト
http://www.asahi-net.or.jp/~fc4t-skri/profile.htm

に、両親が内村鑑三の弟子であったこと、また夫人が無教会派の熱心なクリスチャン一家の人であったことなどの記述がありました。これらの点から、山本氏は少なくともカトリックではなく、無教会派に近い立場にあったのではないかと思われます。
ぼくの間違った思い込みであったかと思うので、当該部分を削除してお詫びします。