村上龍

近所の古本屋で、『群像』の5月号が300円で売りに出てたので買った。
村上龍が、新作『半島を出よ』について、重松清によるロングインタビューを受けていた。
そのなかに、次の言葉があり、いいことを言うなあと思った。

重松さんにしても、多分小説家ってそうだと思うんですけど、マジョリティーの側に立つ小説家はあり得ないですよ。「イスラム原理主義シオニスト」みたいな比喩と同じで、そんなのはあり得ない。小説というのがもし存在価値があるとすれば、それはマイノリティーの側に立つからこそ価値があるわけで、国家がマイノリティーを圧殺する装置を持っているとしたら、別に自分がマイノリティーに属しているかどうか関係なく、マイノリティーが持っているはずの情報を翻訳して、社会に届けるという役割があると思うんです。
 (中略)
 民主主義とか、自由とか、民度とかいうのは、マイノリティーが持っているものをそれだけ社会に伝えられるか。それは大前提的にマイノリティを救うとかじゃなくて、マイノリティーが持っている重要な情報とか、彼らが持っている危機感とかを、どのように普遍的なものに翻訳して、結果的に全体の利益にするかということなんですよ。僕はそれが現代の国家を含む共同体が、あるいは哲学とか自然科学が目指しているものだと思うんです。


村上の言う「マイノリティー」という語の定義のひとつは、「社会のなかで言葉を持たない者」ということだと思う。小説家は、言葉を持たない人が持つ情報や危機感を言葉に翻訳して、社会全体というか、より多くの人たちに伝えることに存在価値がある、ということだろう。これは、哲学者とか社会科学者といった言葉を用いる仕事の人たちも、元来は同様のことが言えるのではないだろうか。
『働くということ』にも『魂の労働』にも、今は社会科学が「工学化」している、というようなことが書いてあって、それはたいへんな変化だろうと思うが、少なくとも従来型の社会科学というのは、やはり事象の言語への翻訳という側面があったのではないかと思う。


もちろん、いわば「知」(使ったことのない言葉だが、ここでは使ってみる)の工学化が、一概に悪いということではない。文学や哲学にせよ、従来型の社会科学にせよ、情報や出来事を無理やり言語に翻訳するという作業にも、工学化とはまた別の暴力性があったと考えるべきだろう。知の工学化には、それからの解放という一面もあるだろう。
要するに社会の仕組みが変わってきたということで、それに応じた知の形態の変化というものも、それ自体はニュートラルにとらえないと仕方がないのだろう。
ただ、工学化された知も、もちろん多くの「情報や危機感」を捨象する。今の時代にあって、それを救い上げることが小説家の存在価値であるという村上の発言には、おおいに共感できる。


でも難しいのは、この人たち(マイノリティー)がなぜ言葉を持っていないのかというと、既成の言葉に翻訳してしまうと消失してしまうような情報や危機感を抱いているからだろう。だから、既成の言葉や表現の形によるのでなく、新しい言葉や形式を自分でその都度作り出しながら翻訳するという作業を、小説家たちはしなくてはいけないのだ。それがちゃんとできる人は滅多にいない、ということではないだろうか。
小説家に限らないが、表現をする人というのは、恐ろしいことをやっているものだ。だが特に、言葉による表現の場合、本来翻訳できないはずのものを翻訳するという作業が加わるので、そこに別の倫理的な難しさみたいなものも加わるのではないかと思う。それは、言語に翻訳するということ自体が本当は暴力的だから、言語という既成の枠組みを壊すような言葉や形式を作り出しながら表現するということでないと、マイノリティーの持つ情報や危機感を損ねて、その消去に加担してしまうことになるからだ。
村上が語っているように、この表現行為の倫理性は、「社会全体」あるいは人間全体に対する普遍的な責任だといえると思う。


ところで村上龍の小説は、長編としては『愛と幻想のファシズム』以来読んでいない。あれがなんと20年も前になるそうだ。ついこの間、新刊として書店の店頭に並んでいるものを買ったような気がするのだが。
今度の新作も、いつ読めるかまだ分からない。
しかし、作品の質量といい、活動領域の広さや国際的な評価の高さといい、村上龍村上春樹たちのパワーは、後続世代を圧倒している。先日ニューヨークでの展示会を成功させた美術家の村上隆(この人は割と若くて、ぼくと同じ歳だが)と共に、ぼくは「トリプル村上」と呼んでるのだが、この人たちのエネルギーは本当に凄いなあ。