抜き書き・「検事側の証人」



花田清輝の古い著作『近代の超克』を読んだのだが、その中の「検事側の証人」というエッセイの中で、1950年代に大きな関心を集めたチャタレイ裁判の被告となって、最終的に有罪とされた(GHQが介入した節がある)作家の伊藤整が、雑誌『近代文学』の座談会のなかで発言した言葉が引用されている。
僕は、これを読んでちょっと感動したので、ここに書いておきたい。今日の文脈のなかで読むとき、ここには非常に大切なことが言われていると思う。
ちょっと文意がわかりにくい記述だと思うので、大事だと思ったところを太線で強調してみる。
簡単に文脈を説明しておくと、まず文中で、「スターリン事件」と言われているのは、フルシチョフスターリン批判のことを指しているのだろう。
また、当時、共産党員でもあった花田は、「言論および出版の自由」が争われたこの裁判の意味が、(僕の言葉でいえば)あまりにリベラル的なものに感じられたばかりでなく、被告を支援しようとする共産党(主流派)の芸術に対する理解の浅さへの失望も手伝って、冷淡な態度をとったという。
だが、花田は、この伊藤整の述懐を読んで、そういう自分の傍観者的な態度の方が「おめでたかった」と自己批判しているのである。

「裁判になってから、しょっちゅう昔の左派の人々のことを考えました。僕がこの事件に巻きこまれるまで考えなかったことも考えました。その一つは社会主義運動に参加した人たちに対する批評はですね、いつでも小泉信三をはじめ、これは理論的にまちがっている、だからそれに従うのは悪いと言うのです。それは承知できないのだな。つまり正義を欲する、欲してやった結果が悪かろうとも、それに参加しない人よりも、参加した人のほうが、よけい正義を欲したという印象を消しがたい。このことは、しょっちゅう私は書いている。この僕の考えは、正義を欲して行う運動のなかから生ずる悪というものがある、という考えにもなるのです。スターリン事件その他にはそれが結果としてあらわれている、という考えかたにもなるわけです。もうひとつはそういうものを伴っても、そういう悪を伴いながら、しかしやはりやらなければならないことが、この世の中にはあると思われるということですね。ですから、共産主義運動の中に悪がないということは私は信じません。その悪に耐えて共産主義運動にくわわる勇気はありません。だから、僕はやらないのを悔いるほどでもないですけれども、やらなければならないことであって、僕みたいな弱虫でない人は、やるべきだということですね。いまでも小泉信三のかいているのをみると、ちょっと気持ちが悪くなるのです。理論的にまちがっているから加わる人は悪いというふうにいうのは間違いです。まちがっているけれどもよいことはある。よいが、まちがっていることがある。そう思わなければロレンスの生きたということが無意味なような感じがするものですからね。どうせ変な男だったのだろうし、多少はエロチシズム過剰でもあったろうが、その男のしたことの中に意義はある、という気持ちです。」