『魂の労働』 人種の犯罪化・変容の政治学

渋谷望著『魂の労働』の5番目の章は、「反転する公共圏」と題されていて、ここでは70年代以後に英米で起きた福祉国家への批判による公共部門の「私化/民営化」の動きが、いわゆる新人種主義の台頭と連関する形で、社会的弱者に対する「公共圏への封じ込め」という事態を生じさせた経緯が、詳しく語られている。
そこでは、非白人の貧困層のコミュニティが、消費生活を謳歌できる人々の社会から隔離され、監視すべき対象として封じ込められる。
この新たな時代の「隔離」の実現のために機能した有力な言説のあり方のひとつは、「人種の犯罪化」、あるいは「犯罪の人種化」であるという。

「犯罪への恐怖」は、人種化された犯罪への恐怖に置き換えられる。いまやかつての「ジム・クロウ」時代のように、黒人であるという理由だけで恐怖や敵意を覚えると公に表明することはできない。しかし、黒人が犯罪者であるのなら、話は別である。「犯罪者」に恐怖や敵意を覚えることは可能だからである。いわば、リベラルによる社会的検閲を巧妙にかいくぐるために、人種のシニフィアンが、「犯罪者」の位置に横滑りしたのだといえよう。(p133)


これは、現在の日本の社会状況を考える上でも、非常に重要な指摘であろうと思う。
以下、ぼくの所感を書く。

犯罪報道における名前の問題

最近のテレビの犯罪報道を見ていると、「(在日)外国人=犯罪予備軍」という一般的なイメージを、見る側に植えつけようとする意図があるのでは、と疑がわれる場合が多い。
たとえば、在日朝鮮人が犯罪を犯した場合、本人が日常日本風の名前を使っている場合でも、ニュースで報道されるのはたいてい本名(韓国、朝鮮式の名前)である。以前は「何々こと」というふうに日本風の名前を始めに付けることが普通であったが、犯罪報道に限っては、それも少なくなってきた。これがあらゆる報道において本名(民族名)重視であるのなら分かるが、どうも犯罪の加害者である場合だけ、そうであるようだ。
「本人が本名を隠したいわけだから、悪いことをした場合以外は明かさないのが当然だ」と思われるかもしれないが、報道というものはそれでいいのか?「公正な報道」というのは、そういうものであろうか。
犯罪の容疑者に関して本名で報道する、現在の多くのテレビ報道のあり方は、警察の発表の方針の通りのものではないかと思う。だとすると、警察、つまり行政側が「外国人=犯罪予備軍」というイメージの定着を意図している場合、こうした報道はそのお先棒を担いでいることになる。もちろん、そうでなくマスコミが自らこのイメージの流布を目指しているのであれば言語道断だが。いずれにせよ、これはもっと慎重に考慮されるべき事柄だ。
一方、犯罪報道以外の場合に、「本人の意志を尊重して」本名でなく日本風の名前しか報じないというのは、それが社会慣行だからであろう。では、この社会慣行自体に対する問いは、どうなっているのだろうか。民族的な名前を伏せなければいけないと「本人」が考えるような社会のあり方に対して働きかける責任を、報道する側は放棄しているのではないか。
といっても、本人が本名を公にしたくないというのを無理やりに報道するというわけにはいかないだろうが、ただ最低限「本人の意志の尊重」を言い訳や口実にすることは、報道するものとしてあってはならないと思う。報道の責務というのは、この「社会のあり方」と向き合うということだろうからだ。
犯罪を犯した場合にだけ本名(民族名)を使用し、それ以外の日常的なケースでは「本人の意志を尊重して」本名を伏せるようにするという報道のスタンスは、一見公平なようでいて、実は現状の社会の人種主義的なあり方や、行政の誤った政策の遂行を助長するものである。警察・行政の意図や、「社会慣行」のままに流されるのでなく、それらを疑い変えていく姿勢がなければ、報道が社会的な役割を果たすことはできない。
現在の日本のマスコミは、多くの場合、「人種の犯罪化」のような行政側のイデオロギーを広める機能を果たしてしまっているのではないか。
そのあたりが、非常に危惧されるのである。

変容の政治学・二重の抵抗

ところで、「5 反転する公共圏」の終わりには、「変容の政治学」という外国の思想家の言葉が顔を見せる。これは、『正義、平等、公民権、民主主義』などの遵守を求める市民社会のレトリックとしての「約束履行の政治学」に対して、『新たな社会関係、そして新たな人間関係を希求する願望』であるとされる。
著者は、西洋的な市民社会の論理においては、分離したものとしてしか扱われることのない両者の共存が、黒人の音楽文化のなかに見られるというポール・ギルロイの議論を紹介している。

<約束履行の政治学>に関しては、市民社会の「内部」の者たちからコンセンサスを得ることは比較的容易であるとはいえ、またそうであるがゆえに黒人の音楽文化においては歌われる内容のレベルに見出すことができる。しかし、市民社会のロジックだけでは事実上の抑圧から解き放たれるのは不可能であることを知る奴隷の子供たちにとっては、しばしばそれと矛盾するプラスアルファの実践が必要である。これが近代への対抗言説としての、というよりむしろ「対抗文化」としての<変容の政治学>である。(138ページ)


この二つの政治学、二つの抵抗のあり方が共存する『二重の仕方での抵抗の作法』が、現在の複雑な状況下での闘争には必要であると著者は言っているようなのだが、具体的なことは、正直ぼくにはよく分からなかった。また、ここでは著者の説明も不足しているように感じる。
ただ、この<変容の政治学>というのは、ドゥルーズ=ガタリのマイノリティ論の系譜にあるものと考えていいだろう。権利や正義といった市民社会のレトリックだけでは駄目だという声が、マイノリティのなかから、それも音楽の領域において出されてきたということは、たいへんよく分かる気がする。「黒人音楽」と言われても、ぼくには非常に狭いジャンルのものしかイメージできないのだが、広範囲にわたってそういうものはあるのだろう。
そして、こうした問題のとらえ方も、また音楽というジャンルへの注目も、ドゥルーズ=ガタリの語ったポストモダン、ミクロ政治学の思想の延長上にあるものだと思える。
だがこれまで、ミクロ政治学はマクロ政治学(つまり<約束履行の政治学>)と対立するものとしてしか機能してこなかったのが、歴史の事実であろう。つまり、「二つの政治学」の共存という難しい課題は、まだ言葉のレベルでは実現されていない。
その実現によらなければ、ポストモダン的な「人種主義」への抵抗もまた困難であろうと、ここでは述べられているようだ。