憲法について思うこと

昨日まで画面に表示されていたAとかRSSというマークが、いま見たら消えてたんだけど、どうしてだろう?面白いね。


以前にもトラックバックをいただいたことのあるhiroさんから、昨日書いたことへのTBをいただいた。
http://hiro551.exblog.jp/d2005-05-11

ぼくの記事は、一視聴者としての「印象」を述べたものにすぎないが、こちらにはもっと具体的なことが書かれていて、ありがたい。
ぼくが特に関心があるのは、最近多くの大学で経営に対する姿勢がシビアなものになっていると聞くが、そうしたことが学者によるマスコミなどでの社会的な発言のあり方に、どんな影響を与えているか、ということである。


ところで、他のところで、「憲法」に関する所感を述べたので、この機会にこちらにも書いておきたい。


①  「歯止め」の機能?
以前、いま憲法教育基本法の「改悪」に反対する運動の中心にあって活躍しておられるある知識人の方に、「学校教育には、どんな倫理的な軸が必要と思うか」といった趣旨の質問をする機会があった。自分がした質問の明確な内容を忘れてしまっているのだが、このときぼくが予測していた答えは、「人権」のような普遍的な思想の提示であった。
だが予期に反して、その方は、概略次のように答えられた。


『自分は、例え現行の教育基本法のようなものであっても、公教育に国家の法による枠がはめられるということは、好ましくないことだと思う。教育基本法のようなものは、本当はないほうがよい。だが、戦後の日本という国を考えたとき、アメリカとの同盟ということもあり、放っておけば軍事国家のほうへ、右傾化の方向へとどんどん流れていく国であったと思う。それを防ぐために、教育基本法という歯止めが、どうしても必要だったのだ。』


この答えは、ぼくにはたいへん分かりやすかった。
同時に、この「歯止め」装置という性格は、「平和憲法」に関してもある程度当てはまるのではないか、とぼくは思う。「平和憲法」の絶対的な理念性を強調し賛美する意見は、現憲法の擁護を唱える人たちのなかに強くあるが、戦後の日本という国がおかれた状況の特殊性、歴史性から切り離して、この憲法の「絶対平和主義」的な性格を考えることは、果たして妥当か。
たしかに、その「歴史性」を認めてしまうと、「いまは時代が変わったのだから」という改憲の口実を与えることにつながるかもしれないが、「理念」ではなく、この憲法が現実の歴史のなかでどんな意味を持ち、どのように機能してきたのかを考えないと、憲法はいつまでも多くの人にとって縁遠いままではないか。また、「理念は立派だが、実際にはアメリカの軍事行動とセットになっていたではないか」という批判にも、十分対抗できないと思う。
『理念は作り事でも、ひとつの歯止めとして有効に機能したのだ』という現実的な反論の仕方をした方が、有効ではないか。


②   憲法はなぜ必要か
非常に基本的なことだが、多くの人はそもそも「憲法」を必要であると本当に思っているのか。現在、「改憲」か「護憲」かで議論になっているようだが、両者に共通する前提は、ともかく憲法は必要だということだろう。だがなぜ必要か。かなりの数の人がちゃんと答えられず、「ともかくいま在るから」というのが本音ではないか。
川島武宜は、『日本人の法意識』で、明治における憲法やその他の法律の編纂は、安政不平等条約の撤廃を列強に認めさせるための「政治上の手段」であったことを強調している。
結局、それ以上のものとして「憲法」をとらえることが、いま現在日本の多くの人にはできていない。これはたしかだと思う。
本当の必要性がピンと来ておらず、とにかく世界中にある制度らしいから、あった方がいいのだろうというぐらいの意識しかない。そこで「改憲」か「護憲」かという話をされても、その議論にどんな重大な意味があるのかがわからない。
これは結局、日本には「市民革命」や「民主化運動」のようなものがなかったから、「立憲主義」の意味がよく理解されていない、ということなのであろうが、ぼくにはそれもよく分からない。



③ 改憲派憲法
要するに、「憲法などなくても、そんなに困らない」というのが多くの人の本音ではないか。
このことをどう考えるかは、非常にややこしい。
憲法をどう考えるかということと、立憲主義をどう考えるかということ、それから「平和憲法」をどう考えるかということは、全部別なはずだ。
とりあえず、日本の社会には「立憲主義」は根付いていない。だが、憲法は在ったほうがいいのだろうと、多くの人が思っている。ここに、改憲派が言うような「立憲主義」的でない憲法の性格付けが、容認されやすい土壌がある。
これはどういうことかと言うと、ぼくも最近知ったが、自民党などの改憲論の根底にあるのは、「近代立憲主義」的な憲法観ではなく、伝統的な国民共同体の精神の表現として憲法を考えるというタイプの憲法観だと言われているらしい。
もともと「立憲主義」が支持されていれば、こうした別タイプの憲法観は出てきにくいのだろうが、日本の場合は、それが抵抗なく受け入れられる土壌がある。


④  近代立憲主義の限界
日本社会に立憲主義が根付いていないということをどう考えるかは別にして、一般的に言えば、「近代立憲主義」に、それなりの歴史的限界があることは明白だろう。
実際、植民地支配や大規模な戦争など、世界を破壊するほどの巨大な暴力の大半は、「近代立憲主義」のもとに起こったとさえいえる。
チャーチルではないが、国民国家と不可分に結びついた近代立憲主義ほど、歴史的に血塗られた政治思想はないといえるかもしれないが、それ以上の制度があるのかどうかは分かっていないのだ。


日本国憲法に関して、英文の原文におけるpeopleが、「国民」と訳されたことが、よく批判の対象になる。
だが、近代立憲主義というものは、もともと国民国家、国民中心主義と深く結びついているのではないか、と思う。
これは、近代の始まりにおいては、王侯貴族たちの国境を越えたつながりに対して、民衆がナショナルな枠において団結することが、市民社会の独立性を守る上で重要な意味があったからだろう。「国民」の総意に基づいて、王や権力者の力を縛るという立憲主義のナショナルなシステムが、近代のヨーロッパにおいては重要な意味を持っていた。
だが、現代の世界においてはどうか。
「国民」を基本的な単位にした立憲主義の思想は、現状に適さなくなっているのではないか。
むしろ、「国民」統合の思想としては、上記の非立憲主義的・保守主義的な憲法観の方が、有効で説得力のある主張になりつつあるのではないか。
自民党などは、「立憲主義」のモデルを捨てて、こちらのモデルによる国民統合へと戦略を変えてきているわけで、「国民」をモデルとすることに拘っている限り、その力に対抗することは不可能ではないか、と思う。


⑤ 「憲法」そのものへの違和感
そういう世界の変化にもとづく効力の失効ということは別にして、近代立憲主義のどこがよくないかということを、もっと原理的に考えると、この思想は「主体である国民の権利を守る」ということを基本にしている。
「それは実際には、国民に限らず市民一般の権利を守るものだ」という意見もあろうが、本質的に「国民」、つまり「自分(たち)自身」の権利を守ることに主眼がある思想であり、制度だと思うのだ。
ここには、自分(たち)でないもの、つまり他人が入ってくる余地は、はじめから少ない。
「権力に対して自己自身の権利を守る」という発想が、根本的にあまりにも偏っているのではないかと、ぼくは思う。
これは、「立憲主義に対する違和感」というより、「憲法」という制度そのものに対する違和感といえるだろう。


⑥ まとめ
ここまでの話を、やや整理しながら続けると、まず、現行の「平和憲法」には「歯止め」としての現実的な意味と機能が、国際的にも一国的にもあったし、いまもあると思う、ということ。この意味で、ぼくの立場は「平和憲法」擁護である。


次に、日本には「近代立憲主義」が根付いていないが、多くの人は憲法はあったほうがいいと考えているらしい、ということ。ここから、改憲派の「非立憲主義」的な憲法観が広く受け入れられる土壌が生じてくる。
付言すると、これは、「国民の権利」ではなく、「国民の義務」を強調するタイプの、新たな国民統合の装置としての憲法観である。
ぼくが思うに、現在多くの人の本音は、「自分たちの権利や自由が制限されることで、生活の安全や社会の秩序化が確保されるのなら、それに異存はない」ということだと思う。こうした人々の意識に対し、「非立憲主義」的な(それは「ポスト民主主義」的とさえ呼びたくなるものだが)憲法観は、魅力のあるものに映っているのではないか、ということだ。


最後に、立憲主義そのものが、国民国家と結びついたものとしては、その歴史的限界が明白になっている、ということがある。
これは、この思想が日本社会に根付いていないという事実とは、別の問題である。
この歴史的限界を踏まえて、それを乗り越えていく努力は、いくつかの国では進められていると思う。それがうまく行くかどうかは、わからない。
また、日本国憲法が、そのような試みに参加するにふさわしいものかどうかも、ぼくには分からない。
ぼく自身は、本当を言えば、「憲法のない社会」こそ理想であろうと思う。だが、そのためには、まず「国家のない社会」を実現することが先決なのだろう。