安全と平和主義・反憲法

憲法についてきのう書いたが、もう少し補足しておきたい。


きのうの記事の「まとめ」の部分で書いたように、いまの日本の社会では、自分たちの生活の安全や、社会秩序の維持あるいは再建、また「国民」とか「日本人」といった集団的な自己同一性の強化といった目的のために、自分たちの権利や自由に制限が加えられることはやむをえないとする考え方が、多数を占めつつあるのではないかと思う。
これをかりに、「制限的民主主義」と呼んでもいいかもしれない。
「国民の権利」よりも、「国民の義務」を強調する、自民党内などの改憲派の主張は、こうした人々の意識の変化にたくみに訴えかけるものになっているのではないか。
伝統的に形成されてきた国民の精神的・情緒的な同一性(「国柄」)の表現として憲法を考える、改憲派の新たな憲法観は、それ自体で、「日本人としてのプライド」のような集団的自己同一性を渇望する人たちをひきつける力を持っているように思う。

安全の思想と平和憲法

特に「安全」の問題についての人々の意識の変化は、「平和憲法」を守ろうとする人たちにとっては、大きな障害になるだろう。
なぜなら、憲法9条に込められた「戦争放棄」の思想というのは、突き詰めて言うと、「他人の安全のためには自分たちの安全が脅かされてもやむをえない」ということだと思うからだ。これは、非常に優れた理念だが、「自分たちの安全」が脅かされる事態こそ何よりも避けるべきことだという現在の社会の意識からは、大きくかけ離れた理念だ。
だが、上のように言い切れないのなら、「戦争放棄」の思想というのは、本当は意味がないはずだ。


ここで思い出すのは、鵜飼哲さんの著書『応答する力』に収められた、ある文章の一節である。日本国憲法とその平和主義の限界と可能性について語られた「美しい危険たち レヴィナス デリダ 日本国憲法」という講演の記録のはじめの部分に、次のような言葉がある。

『絶対的安全、いかなる危険からも完全に守られているという免疫状態は、平和ではなく、その正反対です。』

『(前略)安全が定義上、あらゆる危険を否定し、排除し、ひいては破壊するのに対し、平和とは、不確定であるからこそ、いくつかの特定の危険のなかで、というか、それと共に生きることを、危険といっしょに生きることを知っている、ということなのです。』


日本国憲法の「平和主義」を生きたものとして実現するためには、その「平和の思想」を、このように「安全の思想」とは根本的に異なるものとして受け止めるのでなくてはならない。
だが、こうしたものとして憲法の「平和主義」を受け止めることは、現代の憲法や政治に無関心な人たちにとってばかりでなく、「平和憲法」を愛し守ろうとする人たちの多くにとっても、困難なことだろう。
少なくとも、「他人の生命や安全のためには、自分や自分の愛するものたちの安全が脅かされることになってもやむをえない」という思想を、多くの人に受け入れてもらうことは難しいと思える。
だが、この場所に立つ以外に、「平和憲法」の存続を主張する正当な根拠は、実はないのではないか。そこまで言い切れたときにはじめて、この主張と憲法の言葉は、人々の心に届きうる、生きたものになる。そう言えるのではないか。
それは、「安全」という概念を越えて、生命にとってもっと大事な価値を提示していく、という態度だろう。そういう価値につながるものとして、「平和」という言葉を使っていく。そうした立場に立たなければ、人々の安全への意識に訴えかける「改憲」と「制限的民主主義」の政治には対抗できない。

改憲の現実上の危険

ところで、昨日も書いたように、理念は理念として、このような思想を条文に含んだ日本国憲法の存在が、戦後の国際社会、特にアジア諸国との関係において、日本が信用され認められるために決定的ともいえる大きな役割を果たしてきたことは、事実だと思う。
この憲法を変えることになったときに、アジアの中での日本の位置がどういうものになるかは、最近の中国や韓国におけるデモに示されているだろう。
いまのところ、中国の政府も韓国の政府も、決して日本との政治的な関係の悪化を本音では望んでいないから、大きな緊張には至っていないが、改憲が本決まりになれば、アジアのなかでの日本の孤立は決定的になる。いや、アジアだけでなく、世界中の日本を見る目が変わるだろう。「平和憲法」の放棄は、第二次大戦後の国際社会の枠組みから日本が離脱する決断をしたものと受取られることは必至だからだ。
それでも、こうした見解がそれほど顧みられないのは、日本がもっとも頼りとするアメリカ自身が、いまや「国際社会の枠組み」なるものに重きを置いていないことはたしかだと思われているからだろう。だが、このアメリカの態度の変化が、果たして根本的なものなのか、本当は保証がない。アメリカが再び国際社会との協調的な政策に路線変更を行ったとき、すでに「平和憲法」を放棄した日本は、完全に国際社会で孤立する危険がある。そう考えると、いま日本は、国策の次元で考えても、恐ろしく危ない橋を渡ろうとしているわけだ。
この点を、きちんと語りかけていくことも、大事なことだと思う。

憲法への抵抗

とはいえ、現実問題としては、いまや「改憲」は必至の情勢だというしかないだろう。
この改憲は、ただの改憲ではなく、「国民の権利」よりも「国民の義務」を強調する非立憲主義的な考えにもとづく憲法への移行を示すものだと考えられることは、きのうも書いた。
だとすると、今後日本において憲法は、「国民が国家を縛るもの」という近代的な装置ではなく、「国家が国民を縛るもの」という直接的な国民統合・管理の装置に変質していくことになるのだろう。
また上に書いたように、そうなることを多くの国民が暗黙に望んでいると思われる。
そこで、ぼくはこう思う。
これまでは、憲法は民主主義と個人の権利・自由を保障するものとして、われわれにとって「守るべきもの」だった。だが今後は、改定された憲法による不当な支配にどう抵抗していくかを考えなくてはならないのではないか。つまり、場合によって、憲法を敵とする必要が生じてくると思われる。
憲法といえども、もともとは手段であり道具に過ぎないのだから、使う側の意図が変われば悪しきものとしても機能することは当たり前だ。この道具を、再び自分たちの手に取り戻すまで、「憲法にどうNOを言うか」が、今後われわれの課題となるのではないかと思う。

応答する力 来るべき言葉たちへ

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