産学提携・デリダ批判・映画会社考

断片的な感想を三つ。


① JRの脱線事故が発生した直後、テレビにコメンテーターとして鉄道工学などを専攻する大学教授が何人も登場して、事故の原因について意見を述べていた。そのなかに何人か、「この人の発言はJR寄りではないか」と思われる人があった。
原因の特定に慎重であるべきなのは当然だろうが、「鉄道の専門家」でありながら、企業の経営体質について具体的にたずねられると、「自分はよく知らない」と連発してみたり、どうも素人が聞いても腑に落ちない返答やコメントをする人が何人かあった。
それで思ったのは、こうした学問の分野では、産業と学問との結びつきが今まで以上に急速に強まっているから、今回のような出来事に際して、大学などに所属する専門の研究者から「中立的な意見」を期待するのは、もはや難しくなっているのではないか、ということだった。
これは、もともとそうだったのかもしれないが、最近の「産学提携」の動きの強まりのなかで、その傾向が顕著になっているのではないか。これは考えものだ。特に学問の分野によっては巨額の研究費が必要だったり、実際的なデータを集めるために産業の協力が不可欠だったりするはずだから、「学問の中立性」が所詮は幻想だというのは分かるが、その歯止めがなくなってきているのではないか、と思う。
もしそうだとすると、専門家から、特別なバイアスのかかっていない情報を引き出すことは難しいのだという前提に立って、マスコミは情報の整理と提供をしなくてはいけないだろう。もちろん視聴者の方も、その辺を意識して聞くようにしなくてはいけないのだろうが、なんと言っても専門家でないから判断材料がない。インターネットからの情報だけでそこを補うのは、ちょっと難しいだろうし。
何でも「専門家」の意見を聞いて済ませるのではなく、その人の学問的・専門的発言の政治的文脈や傾向をなるべく意識し、「大体の真実」に直感を働かせる各人の姿勢が、必要な社会になってきた、ということか。こうしたことでも、一人一人が「賢い消費者」になる以外ないのだろう。


② もう一月ばかり前のことだが、ある新聞で今村仁司三島憲一マルクスについての対談をしているのを読んだ。どちらもたいへん有名な学者だが、そこではサイードと並んでデリダが批判されていた。今村氏が「デリダは政治に関することになると弱い」と述べ、デリダが「新しいインターナショナル」というようなことを言っている点を指して、いまだにロシア・マルクス主義の発想の枠から脱却できていないという批判だった。
これはちょっと違うのではないかと思うのは、先日映画で、デリダの映像と声に触れたからだ。そのなかのデリダは、本当に、港町の移民みたいに見えた。デリダが「連帯」を強調するのは、移民同士のつながりという意味であって、共同体主義とはやはり違うのではないか。
そういうものを、ロシア・マルクス主義の残滓だといって、切り捨てることが、新しいマルクス読解の可能性につながるというのは、そう述べる人たちが連帯を必要としない位置に生きているから言えることで、傲慢な感じがする。
あの対談全体に対して、そういう違和感をもった。


③ 以前、『血と骨』という映画について、あまり誉めなかったと思うが、考えてみると大きな映画会社で作品を撮るということの制約は、たいへん大きいのだろう。
あの作品は、『パッチギ!』に比べて、社会的・歴史的な背景や事実がきちんと描かれていないという意見をよく聞き、ぼくもそのように思ったが、『パッチギ!』がこの点で非常に優れていたことは間違いないとしても、やはりこの二つの映画はもともとの興行の規模に違いがあったことは重要ではないか。松竹とシネカノンの違いは大きいはずだ。
日本の大きな映画会社の作品で、あのようなテーマを正面から取り上げることは、現状では難しいのだと思う。その制約の中では、できる限りのことをやっていたといえるのかもしれない。
これまで映画を見る場合、そういう要素をまるで斟酌せずに見ていたのは、逆に不自由なというか、制度の枠のなかでしか映画を見られていなかったということだろう。「撮る側の事情を考慮して」という見方が、本当に作家にとって親切なものとはいえないかも知れぬが、そういう視点も頭に入れておくことは、自分自身にとっては大切である気がする。