「反日」及び「反日デモ」雑感 その4

上海にはそれまでも、ユダヤ人、インド人、朝鮮人白系ロシア人、その他あらゆるヨーロッパとアジアの民族で、自国の保護をうけていない追放者や放浪者や亡命者、また商人が集まっていた。それらの守られざる人々、城壁をもたぬ民と同じ境遇に、在留日本人もおちいったのである。
     (武田泰淳 「限界状況における人間」より)


ちょうど60年前の1945年、日本の占領下にあった上海で終戦を迎えた作家武田泰淳は、当時の上海における日本人たちの状況を、このように回想している。
それは、日本人が戦前から戦時中にかけての特権的な地位を一挙に失い、「日本人としての屈辱と不名誉」と不安に充ちた状況に投げ込まれるという、「限界状況」への転落を意味する出来事だった。
だが、この「限界状況」への転落を、武田はきわめて肯定的に捉えている。

私たちは、敗戦を知らぬ国民には、とうてい味わえないものを味わった。「アジアの指導者」から、一人間にひきもどされた。そしてはじめて、地球上で自由な権利を主張できるのは、日本人ばかりでないことを骨身にしみるまで、知らされたのである。それは、あらためて自分を発見し他人を発見することによって、傲慢な孤立から、ゆったりした平等観に移行できる絶好のチャンスでもあったはずだ。その意味では、敗戦の経験は、単に政治的、経済的なものであったばかりでなく、むしろ宗教的なものだったはずなのである。
                                (同上)


この引用文の最初の一行に、映画『ブレードランナー』のなかで、ルトガー・ハウアーの演じるミュータントが口にする、『俺たち奴隷は、お前たち人間には、見ることのできないものを見てきた。』という、有名な台詞を思い出す人もあるだろう。
どこからこういう認識が出てくるかというと、優れた文学者であり、僧侶でもあった武田は、人間は「限界状況」に置かれることではじめて、『他人と自分とに共通した、今までは考えつかなかった「人間」というつながりを見いだす』ことができるのだという、考えを持っていたからである。


60年目の呼びかけ

この武田の言葉は、日本人がこのとき一瞬、「アジアの指導者」、特権的な国民・民族という「ペルソナ」(ドゥルーズ=ガタリ)を脱し、言葉のもっとも肯定的な意味での「マイノリティー」となりえたこと、つまり、他者と「平等」な「一人間」としての自己の身体を回復しえた経験を回想した言葉であると思う。
だがこの、相手も人間も同じ「人間」同士だという、「宗教的な」認識、「ゆったりした平等観」は、60年前に一瞬日本人を捉えただけで、たちまち失われ、人々は「傲慢な孤立」へと戻っていった。
つまり日本人は、「マイノリティーであること」を失い、マジョリティーとしての「ペルソナ」のなかに再び閉ざされていったのである。


その出来事から60年後の上海をはじめ中国各地で、また韓国でも起こった激しい「反日」の動きを見ていると、ぼくには今が、日本人が韓国や中国の人たちと「平等」な「一人間」としての自分の身体を取り戻す、格好のチャンスなのではないか、という気がしてくる。
それは決して、今現地に居て不安な日々を過ごしているだろう在留日本人が、かつてと同じような「特権的な人たち」であることを揶揄して言うわけではない。
ぼくが「チャンス」であるというのは、近隣の国々で湧き起こった「反日」の声が、グローバル化新自由主義の社会のなかで閉塞し希望を失っている多くの日本の人たちへの、「人間同士の結びつき」を求める呼びかけのようにも聞こえるからだ。


たしかに、これまで三回にわたって書いてきたように、今回のデモの性格を、ぼくは危険で判断しがたいものと考えている。これに単純に同一化したり、美化することには、依然として反対である。実際、この粗暴な動きが、より大きな混乱と犠牲を生み出すことを、ぼくは誰よりも警戒しているつもりだ。
だがそれでも、ぼくの想像力や判断にはもちろん「限界」があるし、仮にぼくの判断がすべて当たっていたとしても、今回の動きを、日本に住む多くの人々、特に若者たちに対する「国境を越えた」意識せざる連帯の呼びかけ、すくなくとも「人間同士のぶつかりあい」を求める声として聞く姿勢は、やはり必要であると思う。
彼(彼女)らに、どんな「粗暴さ」や「弱さ」があり、仮にその背後にどのような「操作」があったとしても、その行動のなかに「一人間」としての叫びを、まったく聞き取らないというわけにはいかない。そう思えてきた。
それは、彼らが、「中国や韓国の民衆」だからではなく、われわれ日本に住む多くの若者たちと同じ、平等な「一人間」だからである。それが、とにかくも日本を名指して行われた行動である以上なおさら、無力な「一人間」から「一人間」への呼びかけという意味合いが、今回の行動に込められていた可能性を、考えないわけにはいかない。


それは、戦後60年を経て、なお「平等」な「人間同士」の位置に立とうとしない日本の人々への、彼(彼女)らの、粗暴で幼稚かも知れぬが必死な、叫びであり呼びかけではないか。
その可能性がわずかでもあるなら、この叫びを、ぼくたちは聞き捨てるわけにはいかないだろう。

応答の仕方

それに答える方法は、何があるか。
ぼくは、ともかく一人一人が、現地の人たちと、直接会って色々話をしてみる以外にないのだと思う。場合によっては口論になり、喧嘩別れになってもいいから、直接会って話してみる。
その場合、自分が逆の立場になれば分かるだろうが、色々な事情で日本で暮らしている中国の人と話をしても、よほど関係ができていない限り、本音の話し合いは出来ないだろう。
相手のテリトリーに自ら足を運ぶこと、つまりあえて中国に行って話しをすることが基本であると思う。できれば、中国語で話せれば一番よいと思う。
自分の国で、自分の言語でだけ相手と交わっていても、本当の相手の気持ちまではなかなか分からない。理屈っぽくいえば、自分の鏡像以外のものと出会うことはなかなか難しいと思う。社会的にも、言語的にも、自分がマイノリティー的な位置に立って相手と関わろうとすること、努力と勇気の要ることだが、ぼくは出来るだけそれを勧めたい。
これは、ぼく自身もこのところまったく出来ていないことなので、書くのが心苦しいのだが、大事なことだと思うので、あえて書くのである。
自分の想像力の幅を広げ、他者と本当の「人間同士」の関係を築くためには、たぶんこれはたいへん大事なポイントである。


以上のことで、先日のコメント欄でいただいた、


『理念によらない連帯の道の模索のカタチを具体的に明示して欲しい。』


という質問への答えも、少しは示せたのではないかと思う。
この質問に対しては、今のぼくには「他者との身体的な関係を積み重ねる」といった漠然とした答え方しかできない。それは、自分自身が、弱い裸の立場に立って他の人間と向き合うということだが、ぼくには、それを自分がこれからどう行っていけばよいかも、はっきりは分からない。
ただ、自分の特権性や構えを、できる限り捨てたところで、相手にとりあえず自分の気持ちをぶつけてみる。そこからひとつずつ関係を積み上げていくことが大事であろうと思う。
今回のデモのことに関しては、とりあえず一個人として、相手の国に行ってみることを勧めたい。とりあえず相手の国の言語と、万一に備えて格闘技の講習も少し受けておいてはどうかと思うが(冗談です)。

断片と自由

今回のデモに関する話は以上だが、先日いただいたもうひとつの質問、


『「自由を求めた断片であり続けること」が、なぜ「集団への隷属を欲望」につながるのでしょう?』


という問いに対する答え。
これもちゃんとした答えができないのですが、書いておきます。


ぼくは、「自由を求めて断片であり続けること」を否定したいわけではありません。それが、本当の自由を得られるものであれば、もっとも望ましいことだと思うのですが、実際にはこの「自由」の中身が曲者で、自分では自由を求めて生きているつもりが、知らぬ間に大きな力の思惑通りに動かされていた、ということになりやすいものだと思います。
この点は、昨日小埜田君が、コメント欄で説明してくれた通りであるとおもいます。
それで、なぜそうなるのかということですが、その大きな理由は、「理念」や「倫理」というものが力を失った現在の社会では(ぼく自身もたいていそうですが)、自由という言葉は、快適さの実現や、安定性と安全の保持、あるいは同一性の確認といった、人間の根本的(動物的な)願望の充足という意味内容で占められることが多い。つまり、システムのなかで自足して安心と安定を享受していられることが即ち自由だ、という意識があると思います。
これが「動物的」であるというのは、次のような意味です。
ルソーは、『動物というものは寝ているのが本来の姿で、腹が減ると仕方がないので起きだして食べ物を探しにいくのだ。』と言っています。これはまるでぼくのことを言っているみたいな言葉ですが(笑)、動物というものは本来そういうもので、人間も「理念」の力が執行してしまうと、動物に戻って、安楽と同一性のなかに閉じこもり続けようとするものらしい。


安定や安楽や同一性のなかに生き続けることは、どうすれば可能か。
それは、「何も考えないで生きる」ということによってです(それ自体は、必ずしも悪いとは言い切れない、と思いますが)。つまり、システムというもの、国家や資本といった大きな機構と一体化して生き、それに疑問を抱かないという意識のあり方は、「動物としての人間」の欲望にもっとも合致するものであり、だから「自由さ」を求めるこの欲望は、本性上、集団やシステムの「歯車として隷属することを欲する」。
自分の意識においては「自由さ」を欲して行動しているのに、結果としては国や企業や組織の「一部」として思い通りに動かされ使い捨てられる。そういう意識と自己の社会的な現実とのずれが、定着しさらに深まりつつあるのが、今の日本の社会ではないかと思います。
ぼくはこれを心配しているわけです。


ちなみに、いまの社会のシステムは、この人間の、動物としての欲望を心地よく是認するという方法によって、人々を管理し統御しようとしていると考えられます。
この点については、このブログでも何度か紹介した『自由を考える』という本に、たいへんわかりやすく述べられていますので、ご一読ください。


では、「自由を求めた断片であり続けること」が、いつのまにか国家とかシステムの「歯車(部品)」として使い捨てられるという不本意な結果を招かないためにはどうするべきか。
ぼくは、断片が本当の「自由」を獲得するためには、断片が断片のままに連帯するという方法を模索することがぜひとも必要であると考えます。そうしないと、国家などによる「統合」の力に回収されてしまう。
そのあたりのことについては、このエントリーの前半でも書きましたし、ここ数日何度か触れてきたと思います。といっても不十分なので、今後も考え続けると思いますが、ひとつだけ今思うことを書いておくと、ぼくは個人の心の中にもあるであろう「文化」(前近代)の層、個人の意識を支えて広がっている土台のような層に働きかけることが、これからは不可欠であると思います。それは、死とか宗教とか、そういうことに関わる領域だと思うのですが、過剰な神秘化や本質主義の危険に陥ることなく、それをどう実現していくか。
その明確なビジョンは、ぼくにはまだありません。

評論集 滅亡について 他三十篇 (岩波文庫)

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自由を考える―9・11以降の現代思想 (NHKブックス)

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