「反日」及び「反日デモ」雑感 その2

昨日書いたことの続き。
反日」感情についてではなく、具体的に今回のデモそのものを、どう考えるべきか、ということ。実は、これがたいへん悩ましい。


ぼくは、この地域の安定のためには、今後話し合いや交渉によって、中国と日本をはじめとしたこの地域全体の軍事力の抑制が図られなければならないと思う。
また、その前提として、いわゆる「過去の問題」に関して日本が近隣諸国に誠意ある態度を示すことは不可欠だろう。
だが今の時点で重要なのは、そうした必要性は今回の「反日」の動きとは切り離して考えられるべきだということではないかと思う。今の「反日」行動には、さまざまな理由や意図が考えられ、また今後どう変化していくかも測りがたい。
平和と協調、和解への努力は、それを行わないことによって「反日デモ」が引き起こされようがされまいが、なされねばならないことである。歴史問題の解決や、安全保障問題を、今回のデモとリンクさせるべきではない。少なくとも、それは慎重になされるべきである。
そう考えるひとつの大きな理由は、今回やデモや行動が、従来の「民衆的行動」とは質的に異なった面があると思われることである。

デモの映像を見ていて

今回のデモについては、「日本への怒り」ということの他、よく貧富の拡大などへの「民衆の不満」が理由としてあげられているが、日本のテレビの映像を見ていて思うのは、こうしたデモや破壊行為を行っている人たちは、比較的豊かな階層の人たちに見える、ということだ。もちろん、これは憶測でしかない。また、都市部のデモを映した映像だからそれが当然なのかもしれないが、楽しそうに卵だのペットボトルだのを大使館の建物に投げつけている様子を見ていると、「反日」にせよ「反体制」にせよ、深刻な熱情を抱えた民衆の意思表示、というふうには、ぼくには思えない。
今回の一連の行動を、従来のカテゴリーとしての「中国の民衆」による政治的行動としてとらえることに、ぼくはどうにもためらいを感じる。
第一、あの人たちは週末になると集まってきて騒いでいるようだが、平日は普通に市民生活をしているということだろうか。たしかに中国の社会でああした政治的行動を起こすのは非常に難しいことだろうから、日本の感覚で判断してはいけないのだろうが、売り出しセールをやっている日本資本のデパートに殺到している市民と、そう違った感覚の人たちのようには見えない。要するに、消費社会のなかで埋没して生きるということと、あの暴動に近いようなデモに参加するということとは、一人の人間のなかで矛盾なく共存しているのではないか。


ぼくはそれを、悪いこと、軽薄なことだと言いたいわけではない。また逆に、そんな「祭り」的な騒ぎにすぎぬから深刻に受け止めたり心配したりする必要はない、と言いたいのでもない。むしろ、「だからこそ危険だ」というのが実情かもしれない。
また、上に述べた「矛盾なく共存している」ことが、現代の中国の多くの人たちの真実な心のあり方であって、その怒りを正面から受け止めるのでなければ、中国の人たちと本当に向き合うことにはならない。そういうことかも知れぬ。

国境を越えるマジョリティーの熱狂

この見解に立って、今回のデモや破壊的な行動の、一見日常と連続しているかのようなあり方を、現代の中国社会なりの民衆の意思表示のスタイルだと認めた上で、しかしこうした意思表示のスタイルを生み出す現代の中国の社会、とりわけ都市部のそれは、従来とは大きく異なった側面を持っていることは否定できないだろう。
ぼくはそこに、消費社会やインターネットによって生み出されたある種の同時代性を見る。つまり、中国も韓国も日本も、また台湾も、ある面では非常に同質的な社会が出来上がっていて、その社会に特徴的な愛国主義や排外主義の形態が、どの国においても一様に見出せるのではないか、と推測するのだ。
今回のデモや行動のあり方は、「文革」や「天安門事件」にも似ているが、それと同時に、別の側面で「イラク戦争反対パレード」や「日韓共催ワールドカップ」、いやさらに「2チャンネル」のようなものにさえ似ているのではないか。
これは、批判したり軽視して言うわけではなく、現実にそういう側面があることを認識していないと、ことの本当の重大性を見失う、と言いたいのである。今回の行動の、本当の危険性は、そこにあると思う。つまりこのマジョリティーによる暴力的な熱狂は、簡単に国境を越えかねないのだ。


上に、豊かな消費社会の日常と、今回のような過激な政治的行動が、一人の人間のなかで矛盾なく共存しているのではないか、という推測を述べた。
別の言い方をすれば、平凡で特に強い政治意識を持たない、もしかすると日本好きの青年が、週末に友だちに誘われればデモに参加して日本料理店を滅茶苦茶にしないとも限らないということである。ごく普通のサラリーマンや公務員が、パソコンの前に座ると「ネット右翼」なるものに変身するのと、共通した何かがそこにはある。
これは、本人が軽佻浮薄であるとか、人格が破綻しているということではなく、攻撃性や集団に属したいという欲望を、近代的・統合的な人格によってはもはや統御できないという、現代社会の人間の一般的な意識のあり方の現れであると思う。
今日、「民衆」や「政治的行動」がありうるとすれば、その本質的な形のひとつは、多くの国や地域において、このようなものだ。
この「怒り」や「政治的行動」のあり方は、ある意味で国境を越えている。

「断片化の時代」の政治と国家、怒り

統合的な人格、すなわち近代的な「主体」の機能の失効が、人々の意識をこのように言わば「断片化」させ、断片のままに「矛盾なく共存」させるのである。現代社会で政治的行動の主役となっているのは、「主体」ではなく、この断片の集合としての個人だろう。その声を吸い上げるような政治システムがまだないために、多くの社会では一見「政治離れ」のような外見が生じ、インターネットや非合法的な行動の形でしか政治的主張が語られない。つまりそれは、政治的と見なされないような空間に囲い込まれている。この閉塞が、ある種の攻撃性を醸成してしまう場合もあるのではないか。
この「断片の集合としての個人」を、別の言葉で「解離的」と呼んでもいいのではないかと思う。


ところで、この断片化の克服は可能だろうか。いや、そもそもそれが克服されることは、いいことであろうか。
この断片化(解離)は、そもそも近代的な「主体」の機能の失効から生じている。それを回復することは、もはや不可能であると思う。人々は、もはやその欺瞞性が明らかとなった近代的な統合の装置に再び回収されるよりは、断片のままであり続ける「自由さ」を望んでいる。
日本における「左翼離れ」、「左翼嫌い」の意味は、そういうことである。


そのことの不可避性は分かるのだが、「自由」を求めて「断片」であり続けることは、やはり重大な危険を伴う。
それは、統合を拒んで断片であり続けるということは、むき出しの集団的な情緒や欲望に身をさらして生きることにつながるからだ。この欲望は、おそらく集団への直接的・無媒介的な隷属を欲望する。つまり、もはや「主体」という機能を経由することなく、人は直接に国家や全体の「歯車」になることを欲するようになる。
現代の「愛国主義」(「愛国無罪」)やナショナリズムには、そういう特徴があると思う。つまり、愛国主義は、もはや近代的なイデオロギーではなく、直接的なスローガンなのだ。
また、むき出しの情緒に流されることは、排外主義の暴力の氾濫を容易に引き起こしうる。


後戻りのきかない「断片化の時代」を生きるということは、国家や全体の「歯車」になりたいという潜在的な欲望に、どう抵抗して生きるか、ということであると思う。
「断片化」の現実は、解離的な日常と、突発的な攻撃性の衝動、安定していて持続的な人間関係や社会生活の困難さなどを、人々にもたらすだろう。東京でも上海でもソウルでも、今の人間は、多かれ少なかれ、そうした孤独さや閉塞や苛立ちと戦って生きているのであろう。ここから逃れるための方途としては、「歯車」になることしか道がない、そう思えることが必ずあるはずだ。そこで、かつてのような「理念」ではなく直接的なスローガンとしての「愛国」や「排外主義」が浮上してくる。それを、どう乗り越えるか。
もはや、「理念」(イデオロギー)の世界には戻れないのだから。


今回のデモや行動にも、そういう苛立ちや怒りの暴発という要素と、そこから解放される道としての「愛国主義」(愛国的な主体でなく、歯車になろうとすること)や、排外主義的な情緒への従属という要素とが入り混じっているのではないかと思う。
だからこれは、国境を越えた同時代的な現象という側面を持つ、とぼくは言ったのである。
この直接的な従属(隷属)への誘惑を逃れる道は、「断片的存在」同士の「理念」によらない連帯の道の模索以外ないはずだ、というのが今のところぼくに言えることである。


やはりまだ言えていないことがあるので、もう一回書きたいと思います。