排外デモが意味するもの

http://d.hatena.ne.jp/free_antifa/20101207/1291739195

http://d.hatena.ne.jp/free_antifa/20101209/1291872075

この出来事については、すでに幾人かの人によって、言われるべきことが言われていると思う。
しかし、この映像を見ても、また文章を読んでも、なかには


在特会によるデモは、一応法的に認められた「表現」で、それを「妨害」しようとした青年を警察が捕まえ、デモをしていた側を捕まえないのは、警察の建前としてはやむを得ないところだ』

という風に思う人が居るかもしれない(実は、私も当初はそう思っていた)ので、念のために書いておきたい。



この排外主義のデモというのは、今の日本においては、市民の自由な表現行動というようなものではなく、国家暴力の一形態だと思う(こうした「デモ」が、それ自体で暴力であることは、多くの人が認めるだろう。)。
(軍事化や差別的な政策によって)国家が現に行使し強化しようとしている暴力を、市民たちが代行している、いや国家が市民たちに委託し代行させている、言わば「非正規化された国家暴力」、「国家暴力のアウトソーシング」とも呼べるものが、この種の「デモ」だ。
だから警察が、この種のデモを囲んで歩くというのは、「非正規化された国家暴力」を「正規の国家暴力」が枠付けながら守ってるという構図になる(もちろん「非正規」だという意味は、都合が悪くなればいつでも切られる、ということでもあるが。)。


この「デモ」の目的は、今の日本の国家と排外主義者の主張に共通するこうした暴力の論理が、社会を「実効支配」していく現実の趨勢を人々に知らしめるということであり、その「合法的」だと認められた暴力の威圧によって、人々を国家の意思の下に統合するということだ。
それはまさしく、国家権力(暴力)の、民衆に向かっての非正規的なデモンストレーション(示威行動)なのであり、ちょうど今行われている日米韓合同軍事演習とやらの非正規版である。


そう考えれば、今回警察が「妨害」した(といっても、実際はつっかかられてきただけのようだが)青年だけを不当逮捕し、デモ参加者の側を捕まえなかったことは、合点がいく。
緊張を高めるだけの軍事訓練に体を張って抗議しようとした反戦運動家を、人殺しの片棒を担ぎたい警察なり保安庁なりが不当にパクったということだ。


これは、デモ参加者個々の意識や、警察組織の思惑や警察官個々の内面には関わりなく、現在の日本の情勢においては、事実上そういう構造になっている、ということである。
国家が、露骨な差別や暴力を容認することで、自らの暴力の行使を正当化するような道を走り始めているのである。
この「デモ」によって本当に表現されているのは、「こうした暴力の論理が、この国家の意思でもある」というメッセージなのだ。


もともと日本では、体制に異を唱える左翼の行動は容易に取締りの対象になるが、右翼はよほどのことがなければ逮捕されることがないらしい。
毎年、敗戦の日靖国神社で行われる右翼の記念行事のようなところに、怪我や逮捕を覚悟で突入する若者たちが居て、その人たちはボコボコにされた挙句にパトカーに詰め込まれて警察のご厄介になるが、ボコボコにした右翼の側はお縄にならない、という話を聞く。
日本にニュートラルな市民社会のルールが生きていると信じるなら、これも「表現や集会の自由」を侵害した側が取り締まられたと、無理に思い込まねばならなくなるが、実際はやくざまがいの暴力を振るった連中が、「靖国」の名の下に「お構いなし」とされているのである。
実際には、日本はもともとそういう国、つまり軍国主義植民地主義の論理が深部を支配している国だ。


だがこれまでは、憲法なり抵抗運動(この若者たちのような)なりによって、その「深部」が露出することに、一定の歯止めがかけられてきたのである。
アジアの人たちも、国内のマイノリティも、この国の「深部」を知りつつも、その「歯止め」の努力がなされていることに、かすかな信頼と期待をかけてきたというのが、実際なのだ。


今や、その「歯止め」は全く失われようとしている。
「深部」の露出をかろうじて食い止めてきた、人々の善意と「恥」の意識と勇気による蓋は引き剥がされ、他者の信頼や期待と共に、平和と共存の日々は失われつつある。
排外的なデモの多発と、その容認(国家及びわれわれ市民による)が示しているのは、そういう事態である。


われわれが、とりわけ政治的・法的な「主権者」とされているわれわれが、この国家暴力の露呈と暴走に、歯止めをかけなければならない。
排外主義者のデモという形で現われる「非正規化された国家暴力」と、政策や軍事演習や警察の不当な取り締まりによって日々強化されていく「正規の国家暴力」の、両方に対して。