「反日」及び「反日デモ」雑感その1

中国でのいわゆる「反日デモ」に関しては、相反する二種類の解釈があるようだ。


① 侵略戦争という「過去の事柄」についての謝罪や反省を日本が示していないことが、大きな原因であるという意見。靖国神社への参拝問題や、歴史教科書の問題などによってそのことが大きく問題化されるようになり、今回の行動につながったとの見解。これは、今回のデモでスローガンとなっている「反日」という言葉を、いわば中国の民衆の「本音」としてとらえ、日本政府の反省を促す立場といえよう。
② 急速な経済発展によって生じた中国国内の社会変化、貧富の拡大や都市と農村との格差などによる不満が、「反日」をはけ口として噴出しているのだ、という見方。なぜそのはけ口が「反日」になるのかというと、中国政府が体制への求心力を高めるために「反日」という理念を掲げて愛国主義の教育を行ったからだ。今回のデモが拡大した背景にも、これを意図的に放置した中国政府の政治的思惑がある、との見解。この立場の要点は、「反日」は作られた理念にすぎない、という解釈であろう。


ただし②については、中国政府のコントロールがどこまで働いているかについて、意見が分かれている。すでにデモは政府側の当初の思惑を越えて広がっていて、「天安門事件」のような反体制運動に発展しつつある、という見方もある。
また、当初からアメリカによる謀略説も噂されてきた。


謀略説はしばらく置くとして(これは考え方のタイプとしては、むしろ②に近いのではないかと思うが)、①と②は、いずれもあたっている部分があるであろう。
しかし、どうも見落とされていることも多いのではないか、とも思う。ぼくの感じていることを述べる前に、この二つの見方に関して、少し見ておきたい。
以下はあくまで、日本における「反日」感情の解釈についての分析であり、今回のデモや破壊行為に関しての言及ではない。

反日本音説と「現在」の隠蔽

まず①に関して。
ことに近年、靖国や教科書の問題だけでなく、日本の政治家が挑発的な発言を繰り返したことによって、日本という国に対する不信と反感が多くの中国の人たちの間に広がっただろうことは、容易に想像できる。
またそれ以上に、近年の日本の国家のあり方の大きな変容の兆しが、人々の日本観に大きく作用していることは否めないだろう。「過去の問題」が語られるとき、この「現在」の視点があまり述べられないことが多いのは、不満である。
「過去の問題」についての対処はたしかに重要であろうが、それがなぜ戦後60年の今日問題になっているのか。この視点が、①に属する言説においても、しばしば不明瞭だ。
中国への日本企業の進出が増大した、といったこともあろうが、政治的・軍事的な要因は見逃せない。戦後60年、日本は海外に自衛隊を派兵したことはなかったし、憲法を改正しようとしたこともなかった。それをいまやろうとしている。韓国での「反日」的な動きについても言えることだが、この日本の変貌ぶりが人々に与える脅威は、軽視できるものではない。そのことが教育などによって植えつけられてきた「反日」という理念に強いリアリティーを与えたと見るべきだろう。
要するに、「過去の問題」は、現在の情勢の緊迫があるから、今強く機能するのである。その意味で、「日本への反発、警戒心」というものは、まず「現代の問題」としてみるべきではないか、と思う。「過去の問題」を「反日」の理由として重視する意見においても、こうした視点があまり語られないことがあるのは、どうも納得しがたい。
本当はありえない想定だが、言いたいことを分かりやすくするためにあえて言えば、もし日本がいま憲法に書かれている通りの「平和国家」になっていたら、たとえ「過去の問題」を十分解決していなくとも、周辺の国の政府や人々の対応は違っていると思う。ところが現状は、日本は憲法を改正し軍事的に強大化する方向に向かっている。そのことの是非をいう以前に、この「現在の問題」の重さを認めるところからはじめる必要がある。


「現在の問題」の軽視、ということで言えば、中国と日本という二つの大国の特に軍事的な拡大の傾向が、東アジア地域全体に与えている脅威の大きさを軽く見積もることはできないだろう。
後で書くが、この地域における最大の不安定要因は、中国の動向であろう。
だが日本には、「唯一の超大国」、ブッシュ政権アメリカとの強固な同盟関係がある。しかもそのなかで在日米軍の再編に伴って、日本の軍事的な役割と存在は、今後どんどん大きくなっていくことが予想される。それにともなって日米同盟の質が変化し、たとえば中国や韓国との資源争奪をめぐって、日本が単独で局地的に軍事力を行使することをアメリカが容認するようになる可能性があると思う。日本の軍事力の拡大と国策変更は、中国の動向に劣らず地域全体にとっての現実的な不安要因なのであり、これも「現在の問題」として人々の心理に影響を与えていないはずはない。


以上要するに、①の意見に対するぼくの不満は、「現在の問題」の重大性を隠蔽するために「過去」が強調されすぎているのではないか、ということである。

反日人工説と経験的限界

次に②に関して。
この意見が一定の説得力を持つのは、特に南沙諸島や台湾に対する言動と行動に顕著な、近年の中華人民共和国大国主義的な傾向と、その愛国主義の高揚が、東アジア地域全体の最大の不安定要因になっていることは確かだ、と思われるからだ。この危険性を軽視することはできない。
無論、この危険性が日本の軍事力の強化という、もうひとつの大きな危険性の増大を容認する理由にはならないが。
いずれにせよ、中国政府が自らの体制を守るために、また自国の行動を正当化するために、強力な愛国教育を行ってきたことは事実であろう。中国における「反日」を、すべて「自然な感情」であると考えることにはあまりにも無理がある。
それに今回のデモの様子を見ていてもそうだが、現在の中国社会における「反日」には、体制や経済の現状に対する不満のはけ口、あるいは口当たりの良い攻撃の対象として選ばれたスローガンという側面が、間違いなくあると思う。つまり、それはある種の排外主義的暴力の可能性や現実性と結びついている。このことは、押さえておかないといけない。それを見ないことは、日本を含めたあらゆる国における、大衆の排外主義的行動の容認につながるからだ。
このことには、後で詳しく触れることになるかもしれない。


とはいえ、この見方にももちろん盲点がある。
①に関して述べたことの裏返しで、この見方は「現在」が「歴史」の積み重ねの上に成り立っているということを、あまりにも軽視している。過去の侵略の記憶が、中国政府による教育やイデオロギー操作のせいばかりでなく、その後の日本の政治家たちの行動や、日本の国家政策の変貌の兆しによって活性化され、リアリティーを与えられてきた結果、「反日」という言葉がたんなる「理念」や「スローガン」以上の、人々の情動に訴えかけるものとして機能してしまっていることは、認めなければいけないだろう。
じつは、このことが実感として理解しにくいという点に、日本と中国など近隣諸国との関係の難しさがある。
これは重大な問題だと思うので書いておくが、よく「ヨーロッパのように東アジアも地域の共同体を作ろう」という主張がされるが、それが困難だと思うのは、日本と近隣の国々との、この心理的、また文化的な性質の隔たりである。つまり、日本社会でマジョリティーとして生まれ育った人間には、過去の歴史的な出来事の記憶が、生きた言葉として人々の情動に働きかけることがありうる、ということが想像しがたい。だから、簡単に「過去の問題」はあまり重要でないとか、「反日は作られた理念」にすぎない、と思えてしまう。
実際、ぼくにもそういうところがあるし、そうであることが一概に悪いとは言えないと思うのだが、ただそれがローカルな特殊性に属する心理だということは、いくらか自覚しておいた方がいいのではないか。
この心理的・文化的特殊性はどこに由来しているのかというと、日本は他国に侵略されたり支配されたことがほとんどないという、歴史的特殊性からであろう。これが、中国や韓国・朝鮮などとは著しく違う。だから、相互理解が難しい。ヨーロッパの場合は、大体どこの国も、侵略されて征服されたり支配されたりという経験をしてきている。だから、その共通の経験を土台にして地域の共同体を作るということも、どうにか可能になったのだと思う。
ところが東アジアの場合、日本だけが、そこが著しく違うのだ。そこに、この地域の難しさの原因のひとつがある。
こうした体験を持たないこと、その意味である種の「想像力」が欠けているのではないかと思われることでは、アメリカもそうだろうが、日本の場合は、アメリカのような移民国家でも多民族国家でもないから、その特殊性はいっそう著しいのではないかと思う。
実を言うと、ぼくは反日」感情と呼ばれるものの、一番根っこにあるのは、この経験の差異、経験に基づく想像力の差異にあるのではないか、と思っている。こちらがなぜ想像できないのかということを、向こうは想像できないし、こちらも向こうがそう思っていることを想像できないのだ。
繰り返していうが、これは一概にどちらが正しいとか、優れているといえる問題ではない、とぼくは思う。あえて「文化」的差異という、相対主義的と非難されかねない表現を使ったのは、そのためにあえてしたのである。結局は、そうしたお互いの違いと限界をどこまで自覚できるか、その上で相互を尊重し思いやるような関係が作れるか、ということがこの地域の独特な大きな課題ということになるのであろう。正直、気が遠くなるような話だが。


以上は、話の前段でした。
続きは、難しいのですが書ければ書きます。