『デリダ、異境から』

うーん。
シックスセンスとはちょっと難しかったなあ・・・。
まあ、次がある。


17日日曜日、神戸の甲南大学で行われた、映画『デリダ、異境から』の上映会とトークの催しに行ってきた。主催は、同大学人間科学研究所であった。
上映の後のトークには、同作品の監督でありエジプト出身の女性の映画作家で詩人でもあるサファー・ファティーさんをはじめ、甲南大学の港道隆さん、一橋大学鵜飼哲さん、神戸市看護大学の松葉祥一さんと、デリダにゆかりの深い方々が参加され、また同志社女子大学の椎名亮輔さんが通訳を務められた。
以下、簡単にその感想を記したい。


まず上映に先立って主催者の側から、今回の催しを一昨年亡くなったデリダに対する追悼の意を込めたものにしたいとの言葉が述べられたのだが、ぼくが印象深かったのは、トークのはじめの挨拶でサファー・ファティー監督が、場所が神戸であるということで、95年に起きた震災の犠牲者と生存者の方々にこの上映を捧げたいと語ったことだった。
ぼく自身、あの地震を少しは体験しているわけだが、正直日常のなかで思い出すことは最早ない。外国の人の方が、それを追悼すべき出来事として記憶しているのか。やはり自分たちは、忘れてはいけないものに蓋をして生きているのでは、という気がした。


映画の感想。
これは、トークのなかでも言われていたが、どうしても見る側はデリダという人のひととなりに注目したり、発言の内容を追うことに気をとられがちで、映像作品としてこの映画を鑑賞するという視点にはたちにくい。ぼくも、そうであった。
その点は作家に対して申し訳ないのだが、その上で感想を言うと、非常に面白い作品だった。デリダの著作に触れたことのない人が見ても、その思想にふれるための入り口として、よく仕上がっていたと思うし、デリダ好きにとっては、なおのこと興味深いフィルムであったと思う。
このフィルムでのデリダは、彼の著作を知る者からすると、たいへん「分かりやすく」自己の考えを述べていたと思う。それでいて、この監督は、デリダの思想の要点をよく理解し、広範な領域にわたって自分の思想、現代の社会に対する呼びかけを語るデリダの肉声をとらえ、的確に編集し構成していたと思う。1時間少しの作品だが、たいへん、力強い内容である。


その内容に関しては、ここでは詳しく触れないが、エピソード的なことで印象的だったものを二つだけ。ひとつは、デリダの僚友とも言うべきジャン=リュック・ナンシーも出演して、デリダとの関係や思い出を語っていたこと。彼が言うには、二人は30年あまりの交友があるのだが、実際に会うと哲学の話はほとんどしなかったらしい。「友愛には沈黙が含まれるものだ。特に哲学では」というふうなことを言っていた。一体なんの話をしてるのか、気になった。
もうひとつは、スクリーンに映った人物の印象として、デリダ、ナンシー共に、大体想像していた通りの感じだったということ。なぜ「想像通り」になるのか、よく分からないが、とにかく違和感がまったく無かった。
それに、デリダの母親の表情をおさめた映像が映されるのだが、すごくデリダに似ているのが印象的だった。特に、目尻のあたりの感じなどがそっくりだ。これもなぜか、ぼくの想像にぴったりと合致していた。


デリダは、少し気難しい感じもあったが、情熱的で、人間味のありそうないい感じだった。この人は人を引き付けるだろうなあ、と納得した。
また、ナンシーもそうだが、たいへんおしゃれである。
とにかく、デリダをよく読んでいる人にも、これから読もうかな、と思っている人にもお勧めの映画だ。


ところでぼくは、よくドゥルーズ=ガタリのことなどをここにも書いているが、実を言うと、デリダの書いたもの(の翻訳)がたいへん好きだ。今回この映画で、本物のデリダの映像と声に触れて、自分がやはりデリダを好きであることを再確認した。
この理由はなぜか、考えてみると、ひとつは彼が「想像界」への執着を手放していない、あるいは手放されていないように見えることがひとつ(この映画のなかでも、「夢の臍」という印象的な言葉が出てきた)。
もうひとつは、彼が自分をヨーロッパの知識人と規定するか、ユダヤ人と規定するか、アフリカ(アルジェリア)人と規定するか、アラブ文化圏の人間と規定するか、といったことで悩み続けた、というよりもそうした「同一性」というものそのものに疑いを投げかけ続けながら拘泥したと思うが、そういう「躊躇」や「逡巡」の感じが、こちらから見るとたいへん親しみ深く思えるということ。この「こちら」というのは、「西洋」に対する幻想の「東洋」(オリエント)の像なのだろうが。ともかく、この西洋(近代)との微妙で複雑な距離の持ち方が、ぼくのような日本人に親近感を抱かせるのではないか、と思う。この点は、いいのかよくないのか。


トークに関しても、今後出版物になる可能性もあるので、詳しい内容には触れられない。
ただ、あるパネラーの方と監督との間で、映画の一場面に関して、きわめてスリリングなやりとりが交わされ、聴衆を(というか、ぼくを)興奮させた、ということだけは書いておきたい。こういうのは、ライブの醍醐味だろう。
その内容については、重要すぎてここには書けない。


あまりに秘密にしていることが多いので、不満に思われる方もあるかと思うが、最後にひと言だけ、本編からデリダ自身の、非常にデリダらしいと思われる言葉を引用しておくことにする。


全体主義は、秘密の粉砕だ。』