マイノリティ論再考(DGを援用して)

昨日の記事にコメントやトラックバックをいただき、ありがとうございました。
あれから考えたこと。


まず、コメント欄でも少し書いたように、ぼくは日本の現状としては、これまで「国民」としてマジョリティであるとされていた人たちも「マイノリティ化」してきていること、そのことによって多くの日本人が積極的な意味での「マイノリティ性」ということを、政治的・美学的な「理念」や「他人事」としてではなく、自分自身の身体に関わる事柄としてとらえるチャンスを得ているのではないか、と思っています。これは、いまの社会の現状に対する希望的な見方、ということですね。


この点について、コメント欄で紹介していただいたid:santaro_y さんのエントリー
http://d.hatena.ne.jp/santaro_y/20050216

は、ぼくにとってたいへん示唆的でした。

理念としてのマイノリティの失効

ここで述べられていることをぼくなりに解釈すると、これまでの特に日本の社会において(他の国のことはよく知らないので)は、「マイノリティ」という存在が、マジョリティの側の政治的(党派的)な主張や個人的な感情(自己理想化や怨恨)を合理化・正当化したり、美化するための道具として使用されてきたのではないか、という見解であると思います。
これはたいへん鋭いと同時に、もっともな見方で、自分自身のことを振り返っても、そういう心理的な要素は多分にあると思います。
こうした見方を人々ができるようになったのは、冷戦が崩壊し、それまで自明であると信じられていた「理念」がその効力を失ったということがやはり大きいのでしょう。皆が、この「理念」としての「マイノリティ」を利用する欺瞞的な構造に気づいているのに、こうした要素を自己認識できず認めようとしない「左翼」勢力のあり方というものが、人々の左翼に対する不信と反感を募らせている。そういう一般的な状況は、たしかにあると思います。
上記のエントリーは、ぼくにそのことを気づかせてくれました。


こうした構造の欺瞞性が明らかになった現在の社会で、「マイノリティ性」を考えるということは、それを「理念」ではなく、自分自身の、あるいは自分と他人との関係の身体的な可能性としてとらえる、ということではないか、と思います。「国民」の多くが社会的にも経済的にも「マイノリティ化」しつつあるという状況のなかで、ドゥルーズ=ガタリが提起したような「マイノリティ性」を一人一人が追及する必要があるし、ある意味ではそれが人が社会的に生きていくために必要不可欠なことになってきている。
これはもっと一般的な言葉で言うと、関係の身体性というようなことになると思うのですが。

DGのマイノリティ論の整理

ここでドゥルーズ=ガタリが『千のプラトー』で書いていたマイノリティ論の要点をおさらいしておくと(ぼくには、他にあまり参照できる知識がないので、いつもこの本の話ばかりになって恐縮なのですが)、次のようになると思います。
まず、重要なことは彼らは「マジョリティ」と「マイノリティ」とを二項対立的な概念とは考えていないこと。
「マジョリティ」という存在は、「支配の状態」を指す抽象的な概念であり「ペルソナ」である。つまり、マジョリティとは『決して誰でもありえない』存在である。
これに対して「マイノリティ」というのは、特定の属性や集団の「状態」をさすものではなく、ある変化のプロセス(「生成変化」)をさす言葉である、と考えられていた。つまり、「マイノリティ」とは「何者かになりうる」という可能性のことだった。
いわゆるマイノリティ的な属性を持つとされる人たちや集団には、「生成変化のための活発な媒体となりうる」という性質が、いわば社会的に付与されているが、この人たちが「状態」であることに固執してしまうと、具体的に言うと政治的・社会的な地位の権力や権利の獲得だけを目的としてしまうと、彼ら自身が「マイノリティ性」(生成変化の可能性、能力)を失って、マジョリティ(支配層、支配集団)と同じ「ペルソナ」に変質してしまう。
そういう認識が示されていたと思います。
こうしたとらえ方は、具体的な文脈は分からないのですが、この本が書かれた当時のマイノリティの政治運動のあり方に対する、左翼の内部批判として出てきた部分があるのだと思います。つまり、「権利獲得」をあまりにも優先したり、特定の集団の特権化や、それに名を借りた党派的な主張の正当化、といったことでしょうね。
現に『千のプラトー』のなかには、

『「いかにしてマジョリティを勝ち取るか」という問いは、知覚しえぬものの進行に比べるなら、まったく二次的な問題にすぎないのである』(p336)

といった文章も見られます。
ドゥルーズ=ガタリの言う「生成変化」とは、結局「〜になる」ということなのですが、可能なのは「マイノリティになる」ということだけであって、「マジョリティになる」ということは変化(運動)としてはありえない、と彼らは言う。なぜなら、マジョリティとは「状態」であり、生にとっては具体性を欠いた、抽象的なものでしかないから、というわけです。彼らが「権利獲得」闘争などを、生成変化にとっては「二次的なもの」としか見なさなかったのは、このためです。これは、かなり過激な主張ではある。
だから、こうした構築主義的あるいは「普遍化」(セジウィック)的な考え方が全面的に正しいかどうかについては、状況に応じて異論があると思うのですが、ぼくは上に書いたような「国民」の多くが社会的・経済的弱者という意味でマイノリティ化しつつあるという日本の現状に対処するうえでは、かなり有効な考え方ではないか、と思います。


千のプラトー』のマイノリティ論でもうひとつ重要だと思うのは、上に書いたように『ただマイノリティだけが生成変化のための活発な媒体たりうる』だとは言っても、マイノリティ的な属性を持っていたり集団に属していたりする側の人間だけでは、「生成変化」は実現されない、とされていることです。
それは、主体(ペルソナ)である一人のマジョリティと、媒体であり動因である一人のマイノリティとが、共に自分の属する集団から離脱しようとしたときに、あるいは少なくともその外に立とうとしたときに、この二人の孤独な「変則者」の「同盟」によってのみ可能になるのだ、と書かれている。
これは、「状態」としてのなんらかの特定の集団や属性に、変化のための特権的な性質が内在しているわけではなく、他者との関係のなかではじめて生の変容が可能になるのだ、ということだと思います。
ここでも、特定の政治的な意図や、自分の怨恨や心情の美化のために、マイノリティと呼ばれる人たちを特権化・神秘化しようとするマジョリティ(支配集団的・党派的)の策謀が警戒され、否定されている。
そういう集団的なものではなくて、集団から外れて外に立とうとする個人と個人との関係が肝心なんだ、ということ。政治的に特権化され、また美化・神秘化されるような、「理念」としてのマイノリティが大事なのではなく、身体的に関係し「同盟」するような身近な存在としてのマイノリティ(他者)との関係が重要である。
これは結局は、いま自分の身近にいる人たちを、いかに「他者」として身体のレベルで見出すか、という事柄とつながっている。そういうことだと思います。
それが可能になれば、社会全体のあり方が自分に近いところから相当変わってくる。

関係の身体性・希望

そういうレベルで他人と触れ合い、関係を作っていくということが、本当に難しかった社会で生きてきたわけで、そこから偏見とか差別とか色々なことが生じていると同時に、自分自身の生の可能性、変容していく可能性というものも、すごく狭められてしまっている。そのプレッシャーがどんどん強まっているのが、現状だと思います。
ただそこで、「理念」ではなくて、生のあり方を変えていく媒体(マイノリティ性)としてお互いの存在を身体のレベルで見出すということが出来るようになれば、生きていくことの可能性はずっと広がるだろう。マイノリティ性というのは、そういう他人との関係のあり方なのだと思います。
僕自身がこれまで個人的に触れ合ってきて感じるのは、社会的に「マイノリティ」といわれる立場の人たちは、これは社会的な理由があるのでしょうが、この関係の身体性の強度が、マジョリティの人たちよりも強いように感じる。それは、人間の生にとって根本的な、変容の可能性に近いところにいる、ということですね。たぶん、「国」とか「制度」とか、そういうものの保護と規定の周縁部で生きているということが、その大きな理由になっているのだろう。
ただそれはあくまでも社会的に決定される条件なので、いま「国民」の多くがそういう周縁部(マイノリティの領域)で生きることを余儀なくされつつあるということは、ぼくたちがそうした根本的な生きる力の源を取り戻せる状況になってきた、というとらえ方ができるんじゃないか。
このエントリーの冒頭に書いた希望的な認識は、そういう意味だったのです。

千のプラトー―資本主義と分裂症

千のプラトー―資本主義と分裂症