「断片的な声」についての補足

一昨日書いたことへの補足。
かなり荒っぽいところのある話だったので、特に「マジョリティ」と「マイノリティ」といった言葉に関連して、もう少し整理してみたい。

「断片的な声」の浮上・嘲笑

ウェブ上のコミュニケーション空間の発達は何をもたらしたのか。
現代社会は、「人間は誰でも複数の属性に帰属している」という事実への自覚を人々にもたらしたが、インターネットの発達はそれを急速に強化した。
たとえば、ある属性のために差別や不当な社会的扱いを受けている人間は、その事柄に関しては「当事者」だが、その人の生には「当事者」でない別の面もある。
「人はすべての事柄において当事者であるわけではない」ということ、つまり帰属の複数性という事実は、人格についての統合的な働きが強固だった社会では、明瞭に意識されることがなかった。本人が「当事者」であるところの有力な属性が中心となって、その人の人格を意識において統合し、他の「非当事者」的な属性は、いわば抑圧されていた、と考えられる。
この各人の「非当事者」的な属性が、統合から解き放たれて声をあげ始めた、少なくとも表面に浮き上がり始めたというのが、ぼくの今日の社会に対する基本的な見方である。
この背景にあるのは、現代の社会が、人々の生のあり方を断片的なものに変えてしまったという現実だろう。インターネットの発達が、これを加速させた。
言葉(声)が、主体による統御から逃れた「断片」となって浮遊し始めた。この傾向を、一昨日のエントリーでは、この存在の「断片性」を、かりに「マジョリティ化」と名づけたわけだ。
抑圧から解放されたと感じている断片的な「声」たちは、統合の維持や復活を目論むかのような理念や人格主義や権威に対して、嘲笑的に反発するだろう。あくまでシニカルに。

声の社会化?

近代的な社会では言説化されることのなかった断片的な声が、社会(公共空間)を満たし、影響力を持ち始めたのである。少なくとも、表面的には。
問題は、この「声」に、現実的で社会的な力を与えるためにはどうすればよいか、ということだと思う。最近のいくつかのエントリーで触れてきたことも、そこに関わっている。
何も「形」を与えなければ、この声たちは想像上の「自由」を謳歌するだけで、現実的な権力の思いのままになり、最終的には法や政治によって封殺されてしまうだろう。なんらかの「自立的」な秩序、「形」の形成は、やはり必要だと思う。
だが、この「声」は、「おしゃべり」の声なのであり、「権利」や「権力」によってその地位を確保し、確固たる「形」を与えたのでは、その本来の「自由さ」は死んでしまう。別の言い方をすれば、それはたんなる「暴力」として他人と自己のマイノリティ性に迫害を加えるだけのものになる。
「おしゃべり」は、言論とは違うのだ。そこが難しい。


この「声」が現実的な力を持ちえないのは、それが現実的な他者との間に倫理的な関係を持つことができないためである。
それは統合的な主体以前の、断片的な意識が発する声なのだから、この非倫理性は当然なのだが、重要なのは、近代的な社会が行ってきたようなものとは別の方法において、他者との倫理的・社会的な関係を実現することはできないか、ということだと思う。つまり、別種の象徴化、社会化?

「断片的な声」に欠けているもの

ここでひとつ考えたいことは、当事者性と非当事者性の関係についてである。
たとえば差別に関して、当事者であることは、他者に対する想像力の欠如を意味しない。むしろ、当事者である場合の方が、他者と自分との立場の互換可能性について鋭敏であることが多い*1
むしろ、非当事者(断片)性の方が、他者に対する想像力、言い換えれば他者との互換可能性を考える力の欠如をもたらしやすい。
ドゥルーズ=ガタリは、マイノリティが生の過程において持つ上記の想像力(互換可能性)を、生の変容可能性として捉えていたと思う(「マイノリティへの生成変化」)。この他者との互換可能性とは、生きる力そのものだというしかないだろう。「断片的な声」には、その力を得るための契機が欠けているのだ。


言い換えれば、この欠如が、こうした声が現実的な力を持つことを妨げ、その「弱さ」の理由となっていると思われる。
すなわち、インターネットの世界でマイノリティへの攻撃がなされることが多いという事実は、この世界の「現実」に対する「弱さ」の証明であり、理由ですらある。
非当事者性、すなわち「断片であること」が、このような質の想像力を獲得するために必要な社会的あるいは、教育的な装置とはなんだろうか。
それが発見できれば、現代の社会に充満する無数の声たちは、本当の「自由」と「独立」を得ることになると思うのだが。それは、「断片であること」が、生の変容可能性を回復する道につながっているだろう。


「形」にならないような言葉(おしゃべり)の生命と「自由」を、その暴力性を自覚した上で、どのように確保していくか、これは「ブログ」という形式を愛好する一マジョリティ(断片的存在)としての、ぼくの重大な関心事である。
しかも今日の社会は、あらゆる人間が断片であることを余儀なくされているのだから、この自立的な「自由への道」の模索は、誰にとっても重要なことであるはずだ、と思う。

*1:ただしそれは、ドゥルーズ=ガタリが述べたように、この当事者のマイノリティ性が、「権力の獲得」のようなマジョリティ的な目的意識に回収されていないことを条件とする