三ヶ月目の所感

今年の1月10日にこのブログを公開しはじめてから(付け出したのは同7日から)、今日でどうにか3ヶ月目を迎えることができた。
これまで読んでくださり、支えてくださった皆さんに心から感謝します。


実は今週から、事情があって、更新が今までほどは頻繁に出来なくなると思う。
二日に一回の割りになるか、三日に一回になるかはわからないが、内容や文の長短に関わりなく、なるべく質のいいエントリーを頑張ってアップしていくつもりなので、皆さんにはこれからも時々はこのサイトを訪れていただきたい(たまに、でもいいです。)。


一応、ひとつの節目にしたいので、現在の所感を少し記しておく。
ひとつ目。
これまで、このブログをはじめることを最初に勧めていただいた方をはじめとして、本当に多くの方たちに支えられてきたと思う。
だが三ヶ月間を通して振り返ってみての率直な感想を言うと、ぼくにとって各々の時期に、最小限誰か一人は、このブログを熱心に読んでくれていることを確信できる人が在った。これは、非常にありがたかった。
インターネットは誰に読まれるか分からないものであるとはいえ、毎日熱心に読んでくれている人の存在を具体的に思い浮かべられないと、なかなか継続して書くことは難しいものである。
ぼくの場合は、そういう存在が、いつも少なくとも一人はいた。というより、そういう存在は具体性を突き詰めれば、必ず「一人」になるのかもしれない。
この「一人」は、ぼく自身との関係性で言うと、親しい友人であったこともあったし、それほど深く話したことのない知人であったり、ずっと以前からメールを通してだけ存じあげている方であったり、またこのブログをはじめてから存在を知るようになった未見の方であったり、実にさまざまだった。
しかし関係性はさまざまでも、その折々にこうした「誰か一人」が必ず存在したということは、ぼくにとって非常に幸運なことであったと思う。神秘的な感じさえする。
感謝したい。


二つ目。
ずいぶん長い文章や、難しいこと、また社会全体を論じるような大枠のことをここに書いてきたと思う。
みっともないが、これからも書くだろう。
だが、言うまでもなく、それに足るような経験や知識の積み重ねや、教養も、また文章の技術も、ぼくにはない。要するに、読んでくださる方々の時間や集中力を割いてまで、他人に伝える価値のあるような特別な情報を持っている人間ではないのである。
それでも、ここに文を書いて公表し残したいという欲望があるから、ぼくは書き続けようとするわけだが、どうしても考えざるをえないのは、では何も持たないぼくがそのように愚かな文を公表し続けることの社会的な意味づけである。


本当のことを言うと、ブログをはじめるに際して大きかったのは、世の中や自分の周りの若い人たちのなかに、自分が持っている情報を伝えておきたいということだった。
ぼくもこの年になって、世の中に残すものが何も作れていないというのは情けない気もするので、このような形で文を公表し、ウェブ上に残しておけば、その時は読まなくても後になって誰かが読み、なんらかの知識、認識なり刺激を得ることにつながってくれれば幸いではないか、それももちろん一種の欲なのだが、そんな気持ちもあってブログをはじめてみた。
最初はそれでいいのだが、実際にやり始めると、上に書いたように、自分は何も人に伝える価値のあるような情報を持っていないのだという事実に気づかざるをえない。ありがたいことに価値を認めてくださる方もあったが、やはりこれだけの分量のものをあきもせずウェブ上に流し続けるだけの内容が、本当に自分のなかにあるか。
そう考えだすと、なかなか続けることは難しくなる。ひとつの理由付けは、「続けること自体に意味がある」ということだ。つまり、何事にも継続できない自分のようなものでも、ブログだけは続けたという姿を、ぼくを知る特に若い人たちに示すことができれば、何かしら教育的効果のようなものがあるのでは、とも考えてみた。続けることの正当化の理由としては弱いが、そうでも考えなければ続けることが難しいときもあった。
だが、これはやっぱりちょっと無理がある。ぼくはそこまで、献身的になれる人間ではないのだ。続けたい欲望があるから続けているだけで、しかしその欲望に、何かしら社会的な意味、正当性があると思いたいという、これもまたぼくの偽らざる欲である。
そこで苦心の末、最終的には、「恥をさらす」という言葉が思いついた。自分のできるだけの文を、ここに無責任に垂れ流し続ける醜態を、公衆の前にさらす。これは、どんなに内容のある人間でも、ぼくのような内容のない人間でも、等しくできる営為だろう。
どんな人間も、恥ならかけるのだ。
つまり、とにかくぼくはここに「恥」をさらす。それが出発点である。それがこのブログの、社会的な位置である。そこから、ぼく以外の人々が何を受け取り、またそれがフィードバックされて、自分がどう変わるか。そういうある種の社会的な実験の場として、このブログをとらえればいいのではないか。
このようにして、ぼくは自分の表現行為と欲望をどうにか正当化しえた。後は、「内容」をひねり出すだけである。


まだ少し書きたいことがあるが、今日はここまでにします。
ともかく、今後もよろしくお付合いのほどを。