同質性の重み

昨日、新春早々、id:kwktさんの「Kawakita on the Web」で、当ブログを言及していただいた。
ご承知のように、あちらはたいへん情報量の豊かな立派なブログで、そこで言及していただくというのは、今年は幸先がいい気がする。
その内容だが、昨年の「リンク元ランキング:サイト部門」ということで、それを見るとなんとうちのブログが、id:ueyamakzkさんの「Freezing Point」に次いで第5位にランキングされていて、驚いた。
これは、当時から読んでいただいている方がおられたらご存知だろうが、上記の「Freezing Point」さんで、あるテレビ番組についてのここの記事を紹介していただき、またそれが有名ブログであるR30さんのサイトでお褒めをいただいたために、一時「バブル的」にこのサイトへのアクセス数が増えたことによるものだ。
その時期にたまたま(では、実はなかったのだが)、映画『パッチギ!』のことでエントリーを書き、「Kawakita on the Web」とのつながりができたので、上記のようなリンク元の数字になったのである。
もちろんその頃から見ると、今はこのブログを見てくださっている方の数はずいぶん減っているだろうが、そのこと自体がいいことかよくないことかはともかく、続けているだけという現状に自足せず新しい試みに取り組みたいものである。


それで、ここからが本論。
この時期のことを思い出すと、ぼくもその頃はトラックバックを少しはやったりしたし、そうでなくとも他の人のサイトに毎日目を通して、ネット上のブログの空間(社会)のなかで議論めいたことをやろうとしていた。
特にTBをよくやっていたのは、いろいろな人に、このブログの存在を知ってもらい、自分の意見や感想を読んでもらいたいという気持ちが強かったからでもある。
それが、ある時期から、トラックバックをしなくなり、他の人のサイトとの関わりをほとんど持たなくなってしまった。最近では、他の方のブログを閲覧すること自体、ほとんどしなくなっている。
これはなぜこうなったかというと、結局ブログの社会のなかで生じる「感情の転移」に疲れた、ということだったと思う。
たとえていうと、『孤独な散歩者の夢想』の頃のルソーみたいな心理状態になった。
分かりにくいか。


「感情の転移」というのは、自分のサイト(ブログ)と他の人のサイトとのつながりによって成り立っているネット上の社会における言葉のやりとりに、自分の感情や欲望が支配されてしまう、みたいな状態だ。
こうなると、ブログに書かれている文字が、たんなる情報ではなく、特別な感情的な負荷がかかっているもののように思えてきて、しんどくなってしまう。
コメント欄の書き込みに過剰に反応するということもあるが、それだけでなく、他の人のブログで話題になっている事柄を読むの自体が、その感情的な負荷の重みのなかに入っていくようでしんどい。また、他のブログに対して過剰に競合意識を持ったりもする。
まあ、自意識過剰なんだけど。
それで、とにかく他のサイトを読んだり、自分が沸騰している話題のなかに入っていくのを避けようとするようになり、閉じこもってしまう。別の言い方をすると、ネット上の社会から「降りる」感じになる。


ぼくの場合は、それで「降りて」しまう感じになった。
結構そういうことで、ブログをやめてしまう人も居るんじゃないか。
なぜこういう「感情の転移」みたいなことが起きるのかというと、ひとつにはブログの場合、趣味や考え方が似通っていたり、もともと現実の空間で知っている人同士の、同質的な共同体になりがちだからではないかと思う。
異質なもののために疲弊する以前に、「同質性の重み」によって追い込まれるのである。
なぜ同質的な共同体というところに追い込まれてしまうのか、自然とそうなっていってしまう傾向があるのか、ということが本当は問題だが、もともと日本ではブログは「言論の場」というより、「日記」の延長としての趣味的な交流の場、まったりした空間、という意識が強いことも事実だろう。
以前にも書いたが、明治の終わり頃の俳句雑誌の「ホトトギス」みたいな同人的な場で、政治的・社会的な議論は好まれない、という傾向があると思う*1


ブログにおいて、「まったりした空間」を目指すということ、これは悪いことではない。
実際、ぼくも最近はそういうブログしか見ない。だが、そうしたブログはたいてい「身内」のものなので(mixiみたいに)、上手にやらないと、上に書いたような「同質性の重み」が生じてしまう可能性は、やっぱりある。
というか、当たり前だが、風通しのいい、創造的な場には、なかなかなりにくい。


こういう同質的な、狭い範囲の共同性を作ることにどうして帰着してしまうのか、そのことはやはり大きな問題だ。
だが、今の社会で、こうした狭い小さな共同体に人々が行き場を求めることには、それなりの必然性、少なくとも不可避性があると思う。
これはもちろん、ブログに限らず、現実の社会においてもいえることだろう。共同体の範囲を広げることが、ただちに「開かれていること」を保証するわけではないのだ。
そうすると重要なテーマのひとつは、この狭い小さな共同体を、どうやって「同質性の重み」から救うか、ということになるだろう。


これはまあ、欲望の問題としてはセジウィック的なテーマ(同質性=ホモソーシャルな社会)と言えるだろう。
要するにそれは、「感情の転移」を、どの方向に、どうやって乗り越えるかということに関係してくると思う。


それには、コミュニケーションにおいて、一定のルールを決めてしまうということ、互いがそれを常に意識して意見のやり取りをするということは、もちろん大事だろう。
だが、もうひとつ重要なことは、不安定であることを怖れない、ということじゃないかと思う。、それは「他者を排除しない」ということ以前に、仲間同士が、お互いや自分自身のなかの「異質さ」を抑圧しないことを意味する(ここで多分、欲望の問題が関係してくる)。
限定された、少数のメンバーであっても、異質的な関係というものはありうる。非常に近い同士であっても、互いがある程度の緊張感を持つことによって、そこに社会性の芽のようなものが生まれるのではないか。
そういうところから生まれた芽を育てることによってしか、これからの時代に意味のある関係性や社会を作るということは出来ないんじゃないか。


ともかくブログにせよなんにせよ、色々なことを試して、あれこれと突き当たり、一度やめてもまたはじめなおす、そういう繰り返しの作業を根気よく続けることになれていくしかないと思っている。
同質的な空間の安定にナルシスティックに固着するというのは、避けたいところだ。
この作業は、一人ではできない。同質的でない関係の空間の形成のための共同作業が、求められるのだろう。


なんだかブログの話からだいぶ離れたところに来てしまったが、今日はこれまで。

*1:よく考えると、「ホトトギス」のような社会にも、「感情の転移」による葛藤はある。有名な例は、この雑誌による文学運動の中心に居た正岡子規をめぐる二人の高弟、高浜虚子河東碧梧桐の対立と葛藤だろう