ちょっと反省しました

先日のエントリーに関連し、過分のトラックバックをいただいているわけだが、そのなかに自分でも気になっていた点を指摘されたものがあったので、触れておきたい。
こちらの記事である。

http://d.hatena.ne.jp/Ohgyoku/20050404

『あの発言は「簡単」に言っていたのだろうか。』

この指摘、痛いところです。たしかに、「簡単に出来る」と、ぼくが簡単に書いてしまったかも。
「あんたのような成功者にはわからない」という言葉は、本当の気持ちとして搾り出されたもので、それはその言葉によって、相手との対話を拒もうとするものではなくて、そこを出発点にして人間同士としての対話をはじめたいというメッセージとして聞くべきだったかもしれない。


あの二つのエントリーの主眼は「どちらも同じものを見失っているため、皆が不要な対立にせきたてられている」ことを警告しようという点にあった。つまり、「置き換え可能性」の能力を失ってるという点では、誰もが同じである、ということを強調したかった。
この認識は変わらないが、ぼくは、この「同じである」点を強調しようとするあまり、非対称性に根ざした人間同士の関わりという、大事なものを「簡単に」そぎ落として書いてしまったのではないか、といまは思う。
自分の体験を他人のそれと置き換えてみる想像力が欠けているという点では、「勝ち組」の人も、「負け組」の人も同じだとしても、だからといって両者の位置が対称であるとはいえない。現実の社会のなかでは、この非対称性を踏まえなければ人間同士の対話や関係がはじまらない、ということも確かに事実で、「あんたは成功者だから分からない」(こういう言い方も、番組でされてたと思う)という言葉には、そこを踏まえて人間同士の対話をしてくれという、発言者の熱情みたいなものが込められていたのかもしれない。
どうもそこを、見られていなかったなあ、という気がしている。


ぼくも、言い訳ばっかりだね。
実はあのとき、「堀江氏は怒っていたが、それほど強く怒ることかという気もするが」というふうに書こうと思って、論旨が不明確になりそうだったのでやめたのだ。
たしかにそんな中途半端なことを書いても仕方なかっただろうが、それだけ自分のなかで何かが引っかかっていたということで、やっぱりあの文章は図式的に書きすぎた点があったと思う。
ただ、あのように腹を立ててしまう堀江氏の短気さに、あまり目くじら立てず、彼の気持ちに対しても少し寛大になってやってもいいんじゃないか、ということが言いたかったんだけど、まあ、日和見的やな。


結局やっぱり、ぼく自身が、自分の立場しか見えていなかったということか。まあ、反面教師にしてくださいね。


しかし、「あんたには分からないんだ」で、本当に対話が成り立たなくなる場合もあるし、難しいところだと思う。
「客観的」とか「ニュートラル」な立場というものが、実際には幻想でしかなくても、少しはそういう視線を自分のなかに入れるようにしていかないと、どうにもならないと思うんだけど。