『風媒花』その1

先日、新自由主義グローバル化の関係がよく分からないと書いたら、メールで参考になる本を教えてくれた人があった。感謝したい。
『魂の労働』という本だそうで、題名からして期待できそうだ。著者は渋谷望。ロック評論家じゃないよね?



武田泰淳作『風媒花』。


この小説が書かれたのは1952年、まだ朝鮮戦争が行なわれていて、この年の4月にサンフランシスコ講和条約が発効し、ようやく日本の独立が回復された、そういう時代である。その頃、この大衆小説とも観念小説とも政治小説ともつかない奇妙な作品は、雑誌『群像』に連載された。ちょっと感じを言うと、埴谷雄高作『死霊』の、思いっきり現世版みたいな小説。サスペンス仕立てだが、モデル小説としても楽しめる。
主人公の「エロ小説家」である「峯」は、ある程度作者武田自身をモデルにしていると考えていいだろう。主人公が同棲している女性「蜜枝」も、その妻、武田百合子がモデルだと思われる。また、かなり重要な役どころとして登場する中国文化研究者「軍地」は、どう考えても武田の僚友、竹内好だ。峯と軍地が所属する、当時は半ば非合法みたいな危険なグループ「中国文化研究会」は、そのまま竹内・武田らが中心となった「中国文学研究会」に違いない。
これらは、あくまで一応のモデルになっているというだけで、小説中の事件はもちろん全て架空のものであろうが、ただ当時の文学・政治運動の情勢や、特に日本と中国との複雑な関係についての武田、及び武田から見た竹内の考え方を知るうえでは、たいへん参考になるのではないか、と思う。
また、そういうことを考えなくても、とにかく風変わりだが面白い小説である。ミステリーになっているし、感動させるところも多々ある。また「エロ小説」らしい箇所もある。かなり長くて、昔読んだときはすぐに投げ出したが、今回読み直すと、あっという間に最後まで読んだ。


作品の筋を書くのがどうも苦手で、また書いてもあまり意味がないと思うので、ここではぼくが印象に残った部分を書き写し、若干(?)感想も交えながら、作品の大体の感じを伝えるよう試みたい。

中国という語について

ちょっとその前に、ひとつ気になったことを書いておく。
それは、主人公の峯が戦前、学生時代に軍地から「中国文化研究会」をやろうともちかけられたときのことを回想する場面。これは、武田が竹内好から「中国文学研究会」の立ち上げをもちかけられたときのことをそのまま書いていると思うのだが、軍地(つまり竹内)は、こう言ったと書いてある。

「中国文化研究会をやろうと思うが、どうかね」
 「よしきた。やろうじゃないか」軍地は、意気ごんだところのまるでない、冷静な調子で、メンバアの氏名を挙げた。「中国という字を、我々が最初に使用したいんだ。これはのちのち重要なことだからね。」軍地は、早のみこみの峯が、よく自分の意図を理解してくれればいいがと気づかいながら、丁寧に説明した。

つまり、「中国」という言葉を、竹内たちが日本ではじめて用いたということになっている。細かい同定はどうでもよいが、たぶんこれは事実に近いのだろう。当時日本では、中国文化について語るとき「支那」という言葉を用いるのが普通だった。何しろ日中戦争の真っ最中である。
川西政明によれば、「支那」という言葉が日本で普通に用いられるようになったのは明治以後であり、文化人のなかには尊敬をこめてこの言葉を用いる人もあったが、一般には日清戦争以後の風潮のなかでこの言葉は侮蔑的な意味合いで用いられるようになり、中国からの留学生の反発を招くことが多かった。そして「中華民国」が成立して後も、日本と日本人は「支那」という呼び名を敗戦まで押し通した*1
竹内たちは、そのなかで、あえて「中国文化」という文字を会の名前に選んだのだ。
ところで気になるのは、ここで、「中国という字を」と、述べられている点だ。現在、この「中国」という言葉は、なんとなく「中華人民共和国」の略称のように使われている。しかし、この時代にはもちろんそういう国はなく、「中華民国」というものは存在した。では、「中国」は「中華民国」の略称だったかというと、必ずしもそうではなく、「支那」に変わる現在と過去の「中国」文化の総称として選ばれた言葉ではないかと思う。
ぼくが強調したいのは、「中国」という言葉は、もともと「中華人民共和国」という特定の国名の略称として用いられた日本語、いや「漢字」ではなかった、ということだ。このことに、はじめて気がついた。
もちろん、竹内も武田も、戦後「中華人民共和国」に特別なコミットをした日本の代表的文化人だが。
それで、いま考えてみると、72年に日中の国交が回復された当時、ぼくはまだ子どもだったが、日本はそれまで国交のあった中華民国という国を承認しないことになり、「台湾」というふうに地域名で呼ぶようになったわけだが、それ以前の呼び名が思い出せないのだ。
つまり、中国という言葉を、北京、台北、どちらかの政府に対して使っていたかどうか。そもそも「中華人民共和国」のことを、国交正常化の前には、ニュースなどでなんと呼んでいたのか。
いつのまにか、「中国」、「台湾」が、何をさす言葉かが当たり前のようになって、「当たり前」になる前のことが思い出せなくなっている。ちょっと怖いことのような気がする。

中国への思いと戦争

さて、『風媒花』の紹介に入ろう。
大衆小説であり、サスペンスだと書いたが、ぼくが関心があるのは武田の思想や、政治史・文学史の面なので、その部分を中心に引用していく。
まず、戦前、「中国文化研究会」で活動し始めた頃の、峯の「中国」への思いについて。ややこしいが、これは作者武田の「中国文学研究会」における活動への思いと重ねて読める部分だと思う。

(前略)日本の文化人の大部分は、「支那」大陸とのあいだに架った、腐食した古い木橋に、ペンキを塗り、杭を添えて、「日支親善」を実現できると錯覚していた。日本と中国とのあいだには断崖がそびえ、深淵が横わっている。その崖と淵は、どんな器用な政治家でも、埋められないし、跳び越せもしない。そこには新しい鉄の橋のための、必死の架設作業が必要だった。頽れる堤と頽れる堤の間に、何度、いいかげんな橋を渡しても、むだであった。贋の橋や仮りの橋は、押し流されるより先に、ひとりでに腐り落ちた。峯たちには、架けねばならぬ新しい橋の姿が、おぼろげながら想像できた。まだ架っていないその橋は、時には、霞たなびく天の橋立のごとく、ロマンティックな虹色に輝いて、やさしくさし招いた。時によると橋は、血なまぐさい地獄の焔に焼かれた刑罰の鉄板のごとく、彼らをおびやかした。その橋が二つの橋をつなぐ日、両国の文化はすっかり変貌しているにちがいなかった。

ここでひとつ思うことは、武田や竹内が、「中国」という存在に対して基本的に「文化」の面から接近しようとしたということである。この点は、かなり重要なことではないか、と思う。それがいいとか悪いとかいうことではなく、また必然だったのかもしれないが、「先に人間ありき」ではなかった。また彼らの場合、学生時代に左翼運動に関わったとはいえ、中国に関しては、「先に政治ありき」でもなかった。
ところで、もちろんこの希望は、すぐさま戦争の現実のなかに投げ込まれてしまうことになる。

中日戦争を忘れて、中国を論ずることは、彼らの何人にも許されていない。何万何十万の中国民衆の家庭を焼き払い、その親兄弟を殺戮したあの戦争を語ることは苦痛だ。唇が歪み、心臓がねじれるほどの苦痛だ。(中略)米英に対して日本は無鉄砲な挑戦者ではあったが、いやらしい侵略者ではなかった(侵略者であることすらできなかった)。だが同じ黄色の皮膚をした隣国人に対しては、日本は徹底的な強者、侵略者、支配者として振舞おうとした。その一方的な戦争に、原も中井も峯も軍地も参加した(軍地は兵士生活の後半を陸軍刑務所で過ごしはしたけれど)。隣国人の血潮と悲鳴と呪いにどろどろと渦巻く、その巨大な事実が、彼らの出発点であった。

米英との戦争と中国などへの侵略戦争とを区分するこの考えは、竹内好が『近代の超克』などで示したかんがえと同型のものだといえよう。ただ、ここでの武田の思想のニュアンスは、竹内ほど「植民地解放戦争肯定」の色合いが強くなく、米英への戦争も殺戮(相互的な)であることには変わりがないが、隣国人に対する一方的な侵略戦争であった中日戦争に参加したという自己の記憶と罪責感はあまりにも重い、ということであると思う。
「殺」に対するこの生理的なとらえ方の迫真性が、思想家・文学者武田泰淳の大きな特徴をなしており、作品『風媒花』の大きな特徴をも形成していると考えられる。
こういう箇所もある。

フランスが好き、インドが好きなら泰平無事なのだ。だが中国が好きとなると、事は面倒になる。政治的な体臭が、すぐさま周囲に発散するのだ。俺と政治?峯は哂いたくなる。

時代は朝鮮戦争の真っ只中で、人民解放軍を投入した中国と、この頃まで日本を占領していたアメリカとが、朝鮮半島で交戦中だったわけだ。「中国文化研究」という言葉は、そのまま敵性活動とみなされかねない状況だった。
峯は自分の立場が「政治的」と見なされることを拒むが、それは「非政治的」ということとは違う。むしろ、「政治的」と呼ばれることへの恥の感情があり、また抵抗があるのだ。
本当の抵抗とは何か、という強い自問がある。

三田村の言葉

ところでもうひとり、三田村という重要な登場人物が居る。日本人の父親と中国人の母親を持つニヒリストの青年で、右翼の大物とつながりを持ち、毒薬を扱ったり拳銃を振り回して破壊工作を試みる過激な行動家である。この青年が初対面の軍地と渡り合うシーンは、なかなか迫力がある。

「私の見るところでは、中国文化研究会の人たちは、非常なむりをしている。むりをしていることが、あなたがたを支えているんじゃないですかね」と、彼は冷静に、聴き手の耳に逆らわぬ言葉を選んだ。
「峯さんは、中国と日本の間に橋を架けようとした。これぐらい、日本帝国上昇期のインテリにとって、悲劇的な愚行はありませんよ。だって日本は中国から搾取することによってのみ成長しえたんですからね。これが日本の運命でしょ。(中略)」
「橋を架けるとは、要するにこの運命を甘受しない行為ですからね。だいたいが無理と申すほかはありません」酔いの乱れは微塵も見せずに、三田村は言った。「ところで私の場合、私の体内、私の血液の流れの中で、橋はとっくの昔に架っちゃってるんですからね。これ以上必要のないほど架っちゃってる。だから困るんですよ。」(後略)

ここで三田村は、かつて日本に滞在して日本人の女性との間に子どもを設けた中国の有名な作家「Q氏」と、その息子との立場の相違を引き合いに出す。日本時代、峯や軍地が私淑していたこのQ氏とは、あの郭沫若のことであるらしい。

「(前略)だがここで我々がひっかかるのは、そのQ氏の悲壮さと、台湾で国民党のロクを食まねばならなかった彼の長男の悲壮さとが、まったく異なっているという一点ではないでしょうか。Q氏はあなたがたと同様、古風純粋な国民的幸福に恵まれている。ところが彼の息子たちは、それを失った位置から出発しているという点ですよ。(中略)あなたがたは幸か不幸か混血児ではない。ここ三四代の血液の点ではね。そのくせ、あなたがたは、心理的精神的には、日本人であると同時に中国人であろうとする、むりな企てをあえてせねばなりません。十九世紀から二十世紀にかけ、日本人は加害者だった。中国人は被害者でした。あなたがたは被害者に同情し、被害者の立場に立とうとする加害者という、滑稽な役割をうけもってるじゃないですか。矛盾だらけ、矛盾そのもの、その矛盾でやっとあなたがたは文化人としての誇りを保っていられる。その悲劇性に私などは、親近感をおぼえるのだと申しあげているしだいでね」

これは、ずいぶん色々なことを考えさせるくだりだ。
まずこれを読んでぼくが意外だったのは、日本と中国の問題に関して、「加害者」「被害者」というタームがすでに当然のように用いられていることだ。このタームは、作中何度も出てきて、複雑な思弁を展開する。
ぼくは、左翼運動の中でこういう用語が多く用いられるようになったのは、せいぜい60年代末からのことではないかとかんがえていたので、1952年の時点でこれらの語がすでに汎用されていたらしいことは、意外だった。この用語は、やはり日本と中国の戦争に政治的な起源があるのだろうか?
それはともかく、ここで作者が三田村の口を借りて表明しようとしているのは、どういう思想的な立場だろうか。
言えそうなことは、これが僚友竹内好民族主義的傾向、「国民文学論」に対する、武田なりの異議申し立てになっているのではないか、ということ。上記の台詞は、その竹内をモデルにした軍地に対して吐かれているものなのだ。「軍地=竹内」の、正義と純粋の思想に対する、「武田=峯」の反感と抵抗を代弁している一面があるのではないかと思う。
もちろんそれだけでなく、これは武田自身にも共通してあてはまる、日本の中国文学研究者、あるいは中国シンパの人々の、屈折したアイデンティティの言明でもある。この屈折の意識は、特に武田には生涯つきまとったものであり、その屈折を否認せず保持し続けることが、武田の思想的・文学的な抵抗そのものだった、という感さえある。
しかし、別の側面をいうと、先ほど竹内や武田の中国との関わりが元来文化的なものだったというふうに書いたが、ここで『その矛盾でやっとあなたがたは文化人としての誇りを保っていられる』と述べられているように、これは文化人、あるいは「文化」という存在そのものに対する武田の違和感や疑念の表明であるとも読める。文化と反文化。この要素は、後年の『ひかりごけ』などにもつながっていく武田の重要なモチーフだが、この小説でもそれがはっきり見出せる。
ちなみに、もし『風媒花』を映画化するなら、三田村役は椎名桔平がいいと思う。


やっぱり長くなってきたので、この項続きます。

*1:講談社文芸文庫魯迅』解説より