日本の競馬と資本主義

寒の戻りで、関西では大阪や神戸でも雪が降った。
すき焼きを食べるなら今のうちである。


日曜日に阪神競馬場で行われたフィリーズレビューでは、福永騎手騎乗のラインクラフトが勝ち、2着のデアリングハート、3着のエアメサイアともども、桜花賞の優先出走権を得た。
レース後のインタビューで騎手自身認めていたように、道中頭を上げるシーンがあり、正直本番の千六ではどうか、という不安を残した。しかし、応援してみたい馬である。
直線を向いて坂にかかるあたりの情勢では、とても届かないのではないかと思ったが、追い出してからの勢いが段違いで、一番外に持ち出されると豪快に差しきってしまった。不安な気持ちにさせるのだが、強いことは強い。


競馬を好きな人は、こういうのを一度でも見ると、「負けてもやむなし」と諦めをつけて馬券を買う根拠になる。要するに、お客さんの呼べるタイプの馬なのだ。ということは人気にもなるということで、信頼度が低いわりには配当的な旨みはないわけだが、こういう馬が好きな人は、あまり配当のことも考えないものだ。
ラインクラフトエンドスウィープという馬の産駒で、去年活躍したスイープトウショウという牝馬と同じだ。この馬も、お客さんの呼べるタイプの馬だとおもう。ただ、こういう馬を「買いたい」と思う競馬ファンというのも、段々減ってきてるのかもしれない。競馬を投資としてかんがえると(ずいぶん割の悪い投資だとおもうが)、ハイリスク・ローリターンで利益にはつながりにくい馬のタイプなのだ。
いや、成立するのなら競馬を投資として考えても全然かまわないとおもうが、つまりぼくが言いたいのは「投資」という態度が一概に相対的な悪だとは思わないということだが、それだけだと精神的にクローズドになって荒廃したり、どこかで暴発するということが起きるのではないかと、漠然とおもう。

順番がおかしい

競馬を本当に「投資」としてかんがえる立場からすると、控除率25%というあまりにナショナルな枠組みは致命的な欠陥に映るだろう。一方で、国や自治体の立場からすると、数少ない有望な財源である公営ギャンブルからの稼ぎは手放したくないであろう。このへんのせめぎあいがどうなるか。
しかし、ぼくが日本の競馬を見ていて一番おもうのは、現場で働いている人たちの立場が、ないがしろにされているのではないかということだ。ぼくは競馬に関しての優先順位は、馬は別にして、まず厩務員とか騎手の人とか調教師とか現場で仕事に携わっている人の立場がもっとも重視されるべきであるとおもう。その次にぼくたちお客さん。最後に農林省の外郭団体である中央競馬会の人たち、要するに主催者である「官」ということだが、こうならなければおかしい。
それが実際にはどうなってるかというと、まったく逆になっていて、役人やえらいさんたちが「ファンのために」を口実にして、どんどん勝手に変な改革を進めていってるように見える。「ファン(お客さん)のために」という言葉を、役人たちがいう場合は、詭弁であり口実である。役人や力のある人たちが、現場で働いてる人たち(切符売りのおばちゃんとかも含む)を押さえ込んだり切り捨てたりする口実として「ファンのために」を使うのだ。そうやって都合よくシステムを変えていき、その「ファン」からさらにたっぷり金をせしめようとする。「お客さんのために」が「現場で働く人」を切り捨てるための文句として機能している。これは日本社会の一般的な構図でもあろう。
でも、お客さんといい、消費者といい、また株主といっても、結局は「現場で働く人」なのだ。競馬場に馬券を買いに来る人たちというのは、平日には会社や工場で働いている。その現場の人たちが、商品やサービスを買い、消費や市場の流れを支えているのである。そういう人間の生身の全体性を捨象して、抽象的な機能だけを考慮する社会のあり方を、誰も疑問におもわない世の中に、いつの頃からかなったとおもう。
商品を買うわれわれの目に、現場で働く人たちの存在が、自分たちと同じ大事さにおいて見えていないような社会は、恐ろしい社会である。「お客さんのために」という言葉ですべてが通ってしまう社会は、客自身が「現場で働く人」としての自分自身を見捨てている社会だ。そんな社会を当たり前だとおもって生きる人間に、自分や他人の生命の大事さが分かるわけがないではないか。


まず、国家が馬を育てる人たちの社会を乗っ取ってしまった。同時に、「賭博」や「偶然性」に関わる人間の生の領域も乗っ取ってしまった。それが近代という時代であり、現在まで続く国家と資本のあり方であった。
そこへ、「投資」という、あらたなタイプの枠組みが出てきた。トランスナショナルな、あるいはグローバルな資本の枠組み。
両者の手打ちはどのあたりでなされるのだろうか。
そしてこの新しい枠組みの到来が、日本という特殊な資本主義の社会に生きる人たちに、もたらすものは結局のところなんであろうか。
一介の労働者が、またいわゆる「労働者」でなくとも一般庶民が、株主という形で資本の運営に参加できるという時代は、たしかに大きな変化の可能性をはらんでいる。とりあえず、日本の文脈に限定して言うと、西武鉄道の例に象徴的に示された、資本のナショナルな独占という戦前から続いてきた日本資本主義の特殊性からの脱却の可能性である。
しかし、その先は。
「のために」という言葉の力で、現場の人たち、いや現に生きているわれわれ一人一人が日常の生活において沈黙を強いられるような、この社会のあり方は、いつどのように変革されるのだろうか。
肝心のところを見失わないようにしたいと思う。