社会のなかの動物と「人間」

近日の記事に、トラックバックやコメント、ブックマークなど、ありがとうございます。
フリーターや労働の問題、鉄道事故のこと、自分が生きている社会の姿というものを色々考えてしまいます。


実は、29日の催しのときに、神戸YWCAというところが作った「ホームレス」の問題についての講演録を購入して、いまそれを読んでるところなんですが、たいへん考えることが多いです。そのうち、ここにも感想を書こうと思ってるんですが。
ひとつだけ書くと、日本では、いま都市の中心部から野宿者の人を追い出そうという動きが強まってるらしい。これは、アメリカでは10数年前から始まっていることで、いまアメリカの多くの都市では条例がどんどん厳しくなって、野宿している人たちが警察に追い回されたり、ということが当たり前になってるそうです。
都市の空間がゾーニングされて、貧しい人や「外部」と見なされるような人たちが、周囲に追い出され排除されていっている。
以前、カフカの『アメリカ』という小説のことを書きましたが、あれは野宿をしたりしながらアメリカ国内を放浪する移民の少年の話でした。いまやそういう人たちをアメリカの都市は法的に排除しようとしている。日本も、どうもその方向に向かおうとしてるらしいんですね。

「人間」ってなんだろう?

ここ何年か、駅のホームにあるゴミ箱が、口のところが狭くなったり、カギがかかるようになったりしてるのが目に付きます。あれは最初は地下鉄サリン事件のときに、不審物が入れられるのを防ぐという理由で始まった動きだと思うのですが、ずっと見ていると、どうもそれだけではない。
あれは、「ホームレス」の人などが、生活の糧にするために雑誌や空き缶を集めたり、食料を調達したりということを、できないようにするためであるらしい。そういう仕方で道を絶っていくことによって、都市の空間からこの人たちを一掃しようということがやられている。
そういえば公園のゴミ箱も、最近形状が変わってきてると思うんですが、これはカラス対策とか色々理由はあるだろうけど、やはりそういう意図もあるのではいか。
社会全体のゾーニングということが進んで、人間の集団が大きく分かれていくという傾向が、今の社会にはやはり大きくあるような気がします。国際間でばかりでなく、ひとつの国家のなかで、そういう状況が生じている。


こういう動きを考えると、TBをいただいたid:ao2さんのエントリーにもありましたが、「種としての人間」とは何か、ということを思わないわけにいきませんね。
つまり、「人間」としての生きる権利を守るという取り組みはぜひとも必要なのですが、本当はこの「人間」という近代的な枠を越えたところで、生命の大事さというものをとらえなくてはいけないのではないか。命が大事にされるべき「人間」と、「人間」のために命を奪われることが当たり前な「非人間=動物」とに二分することで、これまでのわれわれの社会は来たわけですが、この二分化の作用自体が問題なのであって、「動物も人間も命の大事さは同じだ」ということに一度戻ることを、今の時代の現実というのは要請していると思います。


大体、社会というものは元々、人間だけが暮らしているわけではない。野生であったり、人間に飼われていたりして、他の動物も一緒に生きているわけですよね。
そのことの意味を、よく考え直さないといけないのだろうと思います。それを無視して「人間中心」といったときの、この「人間」という定義は変わっていく。歴史的にも変わってきたし、勝手に変えさせない努力はもちろん必要だけど、根本的には「人間」だけを特権化する考え方自体が問われなければいけない。

社会のなかの馬や犬

それから、社会のなかの動物ということについて、もうひとつ。
鉄道事故のことにふれて、近代の日本社会の時間意識の厳密さ、みたいな話がコメント欄で出たわけですが、それに関連して思い出したことがあります。
ずっと以前、『週刊競馬ブック』という雑誌に、杉村さんという調教助手の方がエッセイを連載しておられて、たいへん勉強になる内容だったんですが、そこにこういうことが載っていました。
競馬の好きな人は分かると思うんですが、日本の競馬の進行は、非常に時間に厳密である。よく冬場などに積雪のため馬を競馬場に運んでくるのが遅れて、開始がたとえば30分遅れたとすると、レースとレースの間の時間を5分ずつ短縮していって、とにかく最後には予定通りの時間に終わるようにする。細かいタイム・スケジュール通りに進行を貫徹しようとするやり方は、見ていてもちょっと異様な感じのするときがある。
これは、普段の調教が行われるときにも、そういうことがあって、日本の競馬だけの特徴らしいんですね。
とにかく根本的なことは、人間の勝手な時間進行に、馬を無理やり押し込めようとしている点。
これが馬にどういう影響を与えるかというと、やっぱりすごいストレスがかかって、カリカリした性格になりやすいらしい。ところが、そういう馬の姿を見て、日本の競馬関係者のなかには、「闘争心が出ていていい」というようなことを言う人もいたらしい。
杉村さんという方は、そういうのは絶対よくなくて、こういうカリカリした状態に馬がなるというのは、ひどいストレスがかかっているからである。欧米なら、調教の段階でそういう馬がいたら、精神状態が不安定だと判断してレースに出さず休ませるはずだ、と書いておられました。


つまり何が言いたいかというと、ある社会の特徴は、その社会の人間だけでなく、その社会に生きる他の動物にも同様に影響を与えるものだ、ということです。
時間厳守で融通の利かない、日本の近代社会のシステムは、学校の子どもたちや通勤するサラリーマンばかりでなく、馬などの動物の心にも大きなストレスを与えている。


ぼくは、外国は韓国しか行ったことがないんですが、あちらに行って印象に残ったことのひとつは、向こうで見かける犬というのは、どうも人間をあまり意識していないように見える。
日本の犬というのは、家のなかに居ても、外を散歩させられてるときでも、つねに人間を意識してピリピリしてるような感じがあるが、韓国で見た犬は、知らない人間が近づいてきても平気で寝そべってる奴が多い。
それを見て、「ああ、日本とはずいぶん違う社会なんだろうなあ」と思いました。
写真で見る限り、ヨーロッパの犬も、どうもそんなような感じです。
そういう違いは、人間を見る以上に、他の動物を見ていて感じられることがあるのではないか。


ある種の動物というのは、人間の社会を映す鏡のようなものなんですね、きっと。
でも、その鏡を見つめているわれわれというのは、結局何なんだろうか?