ビル・トッテン氏の言葉から

さっき「ブロードキャスター」を見てたら、ライブドアの問題でビル・トッテン氏が、『株を買うという行為の99パーセントは競馬や競輪と同じギャンブル、マネーゲームとしておこなわれているわけだから、株主の利益や損失など重視しなくてよい。そんなことより、消費者や労働者のことのほうが企業にとってよっぽど大切だ。』と断言していた。
さすが、ビル・トッテン。まったくもって正論だとおもう。現場に居る生身の人間が、企業にとっても一番大事に決まってるじゃないか。
でも、ここまで言い切る「株式会社」の経営者というのは、今の日本にはあんまりいないだろうなあ。
今の日本の経済は、明治維新直後みたいな状況になってて、みんな旧経済(「終身雇用」とか「護送船団方式」とか)に見切りをつけて、「新自由主義」という名の新しい船に乗り移ろうとしている。


だけどぼくが思うのは、いま「株主」と呼ばれている存在は、戦前や戦後の日本経済において「資本」とか「会社」と呼ばれてたものと同じではないか、ということだ。実体のよく分からないこうしたもののために、ということで労働者が搾取され、消費者がないがしろにされてきた。それが今も昔も変わらない日本の資本主義のあり方だったではないか。
つまり、かつては「会社」などと呼ばれ、今は「株主」と呼ばれているのは、「国体」みたいなもんなんじゃないの?
外資」だろうが「内資」だろうが、統制経済だろうが、護送船団方式だろうが、新自由主義だろうが、こういう実体の分からないもののために生身の人間が蹂躙され、また不当な犠牲や不利益を強いられるという、日本経済の構造は、基本的に昔も今も変わってないとおもう。戦前も戦後も、そして今現在も大きくは違わない。
そういう非人間的というのか、具体的な労働者や消費者を消去する仕組みが暴走しやすい構造が、近代の日本の社会にはもともとあって、そこをただしていくことが一番大事なはずだ。
旧経済か新経済(新自由主義)かという対立軸は、これに比べればたいした意味をもたないとおもう。