福田・磯崎対談を読んで

先日、中国の革命家の女性秋瑾の生涯を扱った武田泰淳の小説『秋風秋雨人を愁殺す』について、二度にわたって書いたが、たまたま新しく発売された雑誌に秋瑾や魯迅・周作人のことが話題にされている対談が掲載されていることを知ったので、読んでみた。
文芸誌『新潮』の4月号に掲載された福田和也氏と磯崎新氏の対談、「国際と国粋の臨界点」がそれである。

この対談では、魯迅・周作人兄弟のことが眼目の一つになっていて、秋瑾のことはそんなに触れられていない。ただ、武田の小説にも出てくる秋瑾と親交のあった下田歌子という女性のことが書かれていて、ぼくには興味深かった。この人は、実践女子学園の創設者だが、福田氏の語っているところによると、かなり政治的な暗躍を噂された女性であったらしい。「女ラスプーチン」みたいな感じか?幸徳秋水の「平民新聞」に攻撃されていて、大逆事件はこれを恨んだ下田の謀略だったという説まであったそうだ。
紹興の記念館に展示されている秋瑾の写真も雑誌に載ってるのだが、和服姿でナイフを構えているもので、かっこいいが怖い。顔の感じがどことなく三島由紀夫に似てる気がする。自分の演じているものと、現実の自分自身との境目がどこかでなくなってしまう人だったのかもしれない。そういう要素がないと、ああいう行動はとれないのかもしれない。
そういえば、武田を意識していたらしい三島は、『秋風秋雨』をどのように読んだのか。


ところでこの対談では、『戦闘的な「愛国者」』であり政治的な人物であった魯迅に対して、文学的・趣味的なディレッタントとしての周作人という対比が語られている。
ぼくは周作人という人のものを読んだことがないので、なんともいえないが、魯迅が「戦闘的」と形容されるのは、やや意外な気がした。特に福田氏は、ここの文脈では戦略的にそういう言い方をしているのかもしれないが、ぼくのとらえ方では魯迅は「愛国者」ではあったかもしれないが、良くも悪くも非常に文学的な人だったと思う。
ただ、その後の中国の歴史において、魯迅の評価が政治的な理由で高くなったということは、たしかにあるだろう。実際、この人は文学者としてよりも、言論人としての役割が大きかったのかもしれない。魯迅をあえて文学的に見るというのも、ぼく自身の日本的なバイアスのなせる業なのかもしれない。だがこの点は、ぼくにはよく分からない。


ぼくが特に面白いと思ったのは、「日本にいる自分たち」は「周作人的であらざるをえない」という福田氏の発言だ。

アメリカと戦い、アメリカに敗北し、アメリカの文化を受け入れ、アメリカを前提としながらそれを肯定したりあらがったりしながら生きている。その点でいずれの意味でも、多かれ少なかれわれわれは裏切り者というか、意識的か無意識的かは別として、周作人のようにしかものを作り、考えられないところがあって、そういう意味で、磯崎さんの発言というか挑発は、強く胸に刺さりました。

ここで「周作人のように」というのは、魯迅のように愛国的・抗日的になりきれず、日本文化の伝達者という役割を演じることになった「文人」周作人のあり方を、福田氏はアメリカ文化に対する自分のスタンスになぞらえているのである。また、磯崎氏の発言というのは、現在の中国の官僚や建築家たちがアメリカ留学の体験を通してすっかりアメリカの価値観に染まってしまっていることを、周作人の日本留学後の姿とダブらせて批判した上海のシンポジウムでの発言を指している。
これは言うまでもないことかもしれないが、福田氏は自分のある種の屈折(それを肯定するか否定するかは別にして)の理由を、敗戦とその後のアメリカ文化の流入とその受容に求めている。三島由紀夫なども、この立場であろう。
だがぼくから見ると、「日本にいる自分たち」の屈折の根本的な原因は、明治初頭の東洋人である自己を否定した近代化と国民国家の形成に求めるべきであると思える。少なくとも、そこまではさかのぼるべきであるとおもう*1
ここのところが福田氏とぼくなどの(ずいぶんおこがましい言い方だが)、かんがえ方の大きくちがう点であるようだ。
近代化をああいう形で遂行した時点で、すでにアメリカ的なものへの敗北は決まっていたのではないかと、ぼくには思える。太平洋戦争は、本当に部分的な揺り戻しのようなもので、欧米追従の近代化の成れの果てが一直線に敗戦であり、このいまの現実ではないかとおもっている。堕落や屈折を脱却したいのなら、そこへさかのぼらなければ不可能だ。これは、むしろ竹内好などの立場に近いだろう。
しかし、福田氏の好きな永井荷風もこういう考え方をしてたとおもうのだが。荷風は、戦争中に女子学生などがモンペを履くのを、自堕落な西洋化が行き着くところまで行った姿だといって慨嘆したが、あれは筋が通っていたのだ。


そのあたりでどうして食い違いが生まれるのか、やはりぼくには分かりにくい。
それと、この後に磯崎氏が言った次の言葉が、たいへん印象的であった。

異なる文化が侵入し、それに占領された側というのは多かれ少なかれ、圧倒的なものとして受け取ったはずです。受け取ることを拒否できるような文化は、しょせん大したものではない。

福田氏は、敗戦を体験した磯崎氏の世代と異なり、自分たちの世代には支配的な異文化とのそのような正面からの出会いがなかったということを述べている。その意味でも自分たちはディレッタントであらざるをえないということだ。これも、正直なところであろう。
だが、受け取ることが拒否できないような文化の到来というのは、今現在起こっている事柄なのではないかともおもう。それは出会いの衝撃もなく、知らぬ間にわれわれの生を塗り替えつつあるのではないか。

*1:「東洋人である自己を否定した」と書いたが、これを「自分の経験的な生を否定した」と抽象化した方がよいかもしれない。そうなると、非常に長いスパンの日本文化・社会論のようになってしまいそうだが。