ドゥルーズ=ガタリの労働観

かなり以前から、ドゥルーズ=ガタリが書いた『千のプラトー』のなかに書かれている、労働と労働者についてのかんがえ方を整理してここに書きたいと思っていたのだが、なぜか書きそびれてきた。『フリーター漂流』を紹介してるときにも思ったし、「愛国心教育」とか「総力戦」とか、「日本の資本主義」とかの話を書いてるときにも、ずっとそこに書いてあったことが頭の中にあった。
きのう、労働組合やフリーターに関することを書いたので、この機会にそれをアップしておきたい。といっても、ずっと以前に書いておいた文章を読み返したら、ぼくが書いたものにしては分かりやすくまとまってるように思えたので、それを少し修正しただけで載せることにする。
あくまで自分が本を読んで理解したことを整理するためのノートなので(このブログの文章は、大体そういうものが多いが)、きのう書いた内容とは切り離して読んでください。


1980年にフランスで原著が出版された『千のプラトー』の第13章では、今日よくいわれる「内なる第三世界」、「内なる<南>」の発生、つまり「中心が周辺化する現象」が、世界資本主義の発展によって必然的に生じるものであるとしながら、おそらく西欧諸国の労働市場の現状(70年代末頃の)を、次のように分析している。

不安定な雇用(下請け、臨時雇いまたは非合法労働)においやられた「大衆」が存在し、その生計は公式上、国家の社会保障と不安定な給与によってのみ維持されている。イタリアの代表的な例から、ネグリのような思想家たちは、ますます学生を周辺emarginatiに同化させていく内なる周縁についての理論を産み出している。これらの現象は、新しい機械状隷属とかつての服従との違いを確証してもいる。服従の中心的課題は労働であり、所有と労働、ブルジョアとプロレタリアという二極体制を想定していた。これに対して、隷属において不変資本が中心を支配するという状況において、労働は二つの方向に炸裂するように見える。もはや労働を経ることさえない強度的余剰労働の方向と、不安的で一時的なものとなった外延的労働の方向。(中略)それが目指すのはつねに階級の分断である。(p523)

よく分からない部分もあるのだが、ここでいわれているような状況というのは、今の日本の労働現場のそれに近いのではないだろうか。
ドゥルーズ=ガタリがこれをどのようにとらえているかというと、「服従」の原理から「機械状隷属」の原理へと、労働者の支配のされ方が変わったということだ。これは非常に面白い見方だとおもうので、ちょっと紹介しておきたい。

服従と隷属

機械状隷属は、社会的服従と区分される概念だ。
隷属とは、人間が他の人間や動物、道具とともに機械を構成して上位の管理・指揮に従うような労働のあり方であり、古代の「全面的奴隷制度」と呼ばれた制度がこれに対応する。社会的服従は、人間が主体(サブジェクト)として労働を行なうことを意味する。つまり、人間が機械の構成部品としてではなく、「労働者」として労働を行うということである。

こう言っても第二の体制の方がより人間的であるというのではない。(p512)

この断定がいかにもドゥルーズ=ガタリらしい反近代主義的なところだと思うが、たとえば「戦争機械」という語からも分かるように、ドゥルーズ=ガタリは「機械」という語を、どちらかというと肯定的に使っている。それは、近代の人間中心のシステムのなかでは忘れられた生の連結と変容の可能性が、人間と動物、人間と非生物とのつながりあい、混じりあいさえ可能にするこの「機械」というあり方のなかに見出せるとかんがえられているからだ。
それはともかく、『主体化の手続きとそれに対応する服従が現われるのは、国民国家または国民的主体性という枠組みの中』(p513)であり、そこでは人間は「労働者」という主体として形成されることで、資本と権力の大きなシステムのなかに組入れられるとかんがえられる。だからここでの反権力の戦いというものは、主体である労働者が組織する「組合」などを中心としたものになるだろう。これは、人間がここでは社会のなかで(同時に権力によって)「主体」として形成されるという条件によっている。
ところが、今日の資本主義社会では、『技術的なものとなった新たな形態のもとで』機械状隷属が「再び発明されている」と、ドゥルーズ=ガタリは見るのである。
無論、サイバネティックスとコンピュータが、その代表だ。
だがこれは、たんに社会的服従が去って、機械状隷属が回帰したという話ではない。

不変資本の比率がオートメーションの中でますます増加するとき、新しい隷属体制が見出されるとともに労働の体制にも変化が起こり、剰余価値は機械状になり、先の枠組みは社会全体に拡大される。(p513)

ぼくは経済学的なかんがえ方というのがよくわからないのだが、ここで言われているのは、社会的服従の形式である産業資本主義の発達が、必然的・不可避的に機械状隷属の状態へと人々を連れ戻すという論理だとおもう。


『現代の権力の作用は、「抑圧あるいはイデオロギー」という古典的な二者択一にはとうてい還元されず』、要するに、服従と隷属という二つの体制の混合だと考えられると、ドゥルーズ=ガタリは言うのである。
この意味で、現代の国家は『新しい「メガマシーン」として最も絶対的な帝国を再び築き上げている。』とドゥルーズ=ガタリは言うが、人を機械の部品に還元するというより、資材や歯車へと解体する古代帝国の支配の絶対性と、主体化による管理・操作という国民国家の高度な技術とを併せ持つ、現代の権力のあり方を考える上で、きわめて説得力のあるとらえ方といえるだろう。

現代の労働現場と労働運動

ここで最初に引用した労働市場の現状の分析にもどってかんがえると、ドゥルーズ=ガタリが、人間が機械のように扱われる要素が強くなった現代の労働の現場においては、「所有と労働」、「ブルジョワとプロレタリア」といった階級的な対立の図式によっては、権力に対抗する側の組織化(連帯化)が困難であるとかんがえていたことがみえてくるのではないだろうか。
繰り返していうが、ドゥルーズ=ガタリは、人間が機械として扱われること、「機械状隷属」の状態を、「労働者」という「主体」として人間が形成されることによって成立する近代的な「服従の体制」よりも非人間的であるとかんがえているわけではない。
だがとにかく、今日のような労働現場の状況では、働く人たちが「労働者」とか「プロレタリア」といった統合的な主体として自分を感じとることが難しくなってきている。人々は労働の現場において、もともと主体としては形成されておらず、扱われていないからだ。統合的な「主体」として自分を感じられていない以上、組合などの場において団結することは難しくなる。
人間が、統合的な主体ではなく、断片としてのみ扱われるようになり、自分をそのようにしか自覚しなくなったという変化は、以前に述べた「解離」という状況をおもいださせる。「解離」は、断片化(資材化、という言葉もある)という、主体化に変わる新たな生の様態に対応する現象といえるのかもしれない。
ドゥルーズ=ガタリが、この現状に対して示しているひとつの認識は、かつて「主体」という存在の形式が生み出した「感情」という心のあり方に変わる、別の種類の心のあり方が、この「機械状隷属」と「断片化」という状況のなかから生じてくるはずだ、ということだった。それは、近代的な人間的な生の枠組みを越えるものとしてかんがえられていた。
おそらく、ネグリらの「マルチチュード」という概念も、こうしたドゥルーズ=ガタリの思想との関係のなかから構想されてきたものではないかとおもう。
この反人間主義的な「大衆」概念の当否はともかく、彼らが機械の部品のように、あるいはコンビニの商品のように断片化(脱主体化)された、現代の人々の生活のあり方に、あたらしい生の可能性を見出そうとしたことはたしかだ。
だが、機械の「情動」と彼らはいうが、この断片化され周縁化された人々に、どのような連帯の可能性が具体的に見出せるのだろうか。

千のプラトー―資本主義と分裂症

千のプラトー―資本主義と分裂症