牛と豚の話

哲学する猫

なにか書きたいことがあったのだが、どうも思い出せない。
先日、豚肉料理のことを書いたので、ぼくなりの「食肉文化論」をちょっと書いておきたい。この話は、たぶん大方不正確な思い込みであると思うので、ざっと読んで、本当のところは調べてください。

牛肉の歴史とアメリカの世界戦略

かなり以前、NHKの番組でやっていたので見た人もいるだろうが、牛肉の歴史の話。
ぼくは行ったことがないのだが、ヨーロッパでは今でも庶民の食べ物としての牛肉料理というのは、基本的に内臓料理なのだそうだ。たしか玉村豊男とかも、そんなことを言っていた。内臓以外の牛肉を食べるという習慣は、世界的になかなか定着しなかった。理由は簡単で、肉が硬くて食べられなかったのだ。牛は農耕用に世界中で飼われてたけど、内臓以外の部分は食用に適さないと思われていた。
それが食べられるようになったのは、19世紀にアメリカで「アンガス種」という品種が開発されたことによる。肉が柔らかくて食用に適したこの品種が世界中に広まるに連れて、内臓以外の牛肉を食べるという習慣が世界に広まった。
ところが、この牛はどうして肉が柔らかいのかというと、餌にトウモロコシを食べるかららしい。現在アメリカは、世界のトウモロコシ生産量の約4割を占め、最大の輸出国(シェアは6割)になっている。ちなみに、最大の輸入国はロシアと日本で、日本は総輸入量の9割をアメリカに依存している(数字は、Wikipediaで見ました)。なんでトウモロコシをいっぱい輸入するのかというと、結局家畜に食べさせるということが大きい。
つまり、牛肉を食べる文化の定着したところは、基本的にアメリカからのトウモロコシの輸入に依存せざるをえない構造になっている。牛肉を食べるといっても、いまはハンバーガーとかが多いんだけど。
日本と並ぶ最大の輸入国であるロシアは、長らく自給で頑張っていたのだが、ソ連時代の末期に何年か続けてトウモロコシの大不作に見舞われ、以来アメリカからの輸入に頼るようになっていった。もっと頑強に抵抗し続けたのは、もちろん中国だった。理由は、共産主義国だったこともあるが、もともと牛肉を食べる習慣があまりなかったから。代表的な中華料理で牛肉を使うものって、チンジャオロースぐらいしか思い浮かばないんだよね。
というよりも、牛肉を食べるようになったらアメリカに依存せざるをえなくなるという図式が分かってたから、極力そうならないように頑張ってたのだろう。それがなぜだんだん難しくなってきたのかというと、もちろん改革開放政策だ。所得が上がるにつれて、牛肉の消費量が急激に増えていった。マクドナルドも出来たし。
有名なのは、やはりトウモロコシが中国で大不作になった年、中国政府はシカゴの穀物市場で大量の買い付けを行った。その結果なにが起きたかというと、トウモロコシの価格が急騰して、それを主食にしているメキシコやナイジェリアのような貧しい国々がトウモロコシを買えなくなり、大量の餓死者が出た。このとき、中国の国際的な立場はかなり悪くなった。
だがそれでも、現在中国は、アメリカ以外でトウモロコシを自給でほぼまかない、輸出まで出来る唯一の国であるという。今後、生産量がさらに増える見込みもあるようだ。中国がアメリカに対抗するパワーであり続けられる理由のひとつがここにある。韓国なども、農産物をアメリカに依存しないように頑張っているが、やはり国土の大きさという問題があるだろう。
日本は、こういう努力はまったくしてないのだが、どうするつもりなのか。そんなことをしたらアメリカに睨まれると思ったからだろう。日本の支配層は、国民の命をアメリカに売り渡してしまったようなものだ。
いずれにせよ、マクドナルドなどを含めた牛肉文化の世界的拡大の背景には、アメリカの世界戦略があった。

豚、偉大なり

じつは上記の事情は、豚肉に関しても同じらしい。豚もトウモロコシを主食にしているのだ。だから、牛肉を豚肉に切り換えれば、アメリカに従属しなくてすむということではない。
しかし、最大の豚肉の生産国であり消費国でもある中国が、トウモロコシを自給できている点が、牛肉との事情の違いである。世界の豚の半分以上はアジア地域にいて、しかもその大半が中国にいるのだという。豚は、中国がアメリカの世界支配から独立していることの象徴であるともいえる。毛死すとも豚は死なず。豚、偉大なり。
面白いのは、韓国の済州島でも沖縄でも、かつては各家庭で豚が飼われていたという事実だ。東アジア一帯には、豚肉文化圏のようなものが存在してきたのかもしれない。でも、このサイトによると、豚は中国では「ペットや野犬のように広域に繁殖している」と書いてるんだけど、本当なのかなあ。いずれにせよ、豚肉はアジアでは古来広い地域で食べられてきたリージョナルな食肉だったようだ。
そうかんがえると、日本では豚にしても牛にしても、食肉文化が根付かなかったのは、なにか理由があるのだろうか。もちろん、江戸時代とか、それ以前には、いま思ってる以上に食べてただろうとは思うんだけど、それにしてもあんまり痕跡が残ってないのは興味深い(でも、鯨は食べてたようだが)。やっぱり仏教の影響もあるのかなあ?
ああそうだ、そのうち宮澤賢治の『ベジタリアン大祭』のことも書きたい。でも、これをやると宮澤賢治シリーズになっていきそうだ。


それはともかくとして、どうも世間的に豚は牛よりも低く見られるきらいがあり、豚肉の大好きなぼくとしては納得のいかない部分がある。世界的にそうかもしれないが、日本の場合、この「牛優位思想」には、欧米崇拝とアジア蔑視の心理が重なってるようにおもう。アジア文化圏を象徴する豚と、西洋的なものの象徴である牛(小野十三郎の詩「明治のすき焼」を思い出す)。だって比較してる「牛」というのが、結局ステーキとかすき焼きの肉のことで、ホルモンとかじゃないとおもうんだよね。
でも本当に牛を食べる歴史の長いヨーロッパとかでは、さっきも書いたように内臓を食べるというのが普通のことなんだけど、たいていの日本人はそういう部分のヨーロッパ文化というものを知らないのだ。ヨーロッパの表層しか見ていない。だから、ヨーロッパの文明の根底にある、動物を家畜として飼うという行為、また動物を殺してその肉を解体するという行為の意味がよく分かっていない。どうもそんな気がする。ヨーロッパの文明にどっぷり浸かって生きてるのに、その実質を知らないままなのだ。まあ、それが日本の異文化受容のやり方だといえば、それまでだが。
いやあ、こう考えると深いなあ。まだまだ色々考えられそうだが、今日はこのへんで。
でも、ぼくは牛肉も大好きです。